今日は「この世の定め」について考えてみたい。2002/7アルバム「カシス」に収録されている。世の中で起こっている間違いや過ちが気になっているようだ。しかし私の記憶では、陽水は世の中で起こっていることにはあまり興味がなかったはずであるが、50才を過ぎて、何故こんな曲を作ったのであろうか。それとも残りの人生を考えた時、こんなことにはならないようにしようと言う自分への戒めなのであろうか。
「壊れそうな 札束のパレス」。札束のパレスで思い出すのは、旧統一教会の天正宮博物館であるが、あんなものは作れないにしても、陽水なら豪邸ぐらいは建てられるであろうが、そんなものは建てたくないよと言いたいのだろう。「神々の手で 描かれる テレビ・アート」。デビューした頃からテレビには出なかった訳であり、特に紅白歌合戦には出演してほしいという依頼が何度もあったはずであるが、全て断っている。その理由が「恥ずかしいから」だそうだ。私の勝手な想像なんだが、テレビに出るとなると、こんなことが起こるのではないだろうか。仮に「白いカーネーション」を歌うとすると、アナウンサーが事前に「この歌には、どんな思いが込められているのですか」と。歌の前奏部分で曲紹介をするために必要な情報を入手するためのものである。母のことを歌っていますなんて口が裂けても言えないですね。前にも書いたような気がするが、1970年代にテレビで放送された「傷だらけの天使」で探偵事務所の所長である岸田今日子さんが朝食をとっているところに萩原健一さんが入っていった際に、所長が言った「私は食事を見られるのが一番恥ずかしいのよ」と。食事をすることは恥ずかしいことなんだと衝撃を受けたことを今でも覚えるいるが、何かそんな感覚に似ているのではないだろうか。素の部分をさらけ出す恥ずかしさとでもいうようなものである。
「ミツバチたちが おぼれ合う ミルク・セーキ」。行列のできるラーメン店とか人気のあるところには、ワンサカと人が群がることになるが、そんな店には興味がないのであろう。「愛する目に会わせて もう少し 手で抱きしめて 逃げても すぐ TELE-PHONE」。今でいうなら、ネットとかラインとかそんなものよりみつめあったり、手で触った感触が重要ではないかと言いたいようだ。「まぼろしだけが 恋の世のブルー・バード」。「恋は盲目」とか「あばたもえくぼ」ということを言いたいのではないだろうか。