今日は「ワカンナイ」である。1982/12リリースのアルバム「LION & PELICAN」に収録されている。この曲の歌詞には、宮澤賢治の詩「雨にも負けず」が随所に取り入れられているが、宮澤賢治に何かを語りかけているようには感じられない。そうではなくて、語りかけている相手は別の誰かではないだろうか。
そこで、現在の自分に置き換えてみたいと思う。定年もかなり過ぎて孫が生まれると 、最も気掛かりなのが子供と孫の将来である。自分が若かった頃とは、社会の仕組みや価値観がゴロゴロ変わり、どう対処していいか分からないことが多い。こうしたらとか、あうしたらとか、たまに会う機会があっても、的を得たアドバイスになっているのかなと感じることも多々ある。陽水の思考は私より30年くらい先にあるとすると、30代で同じようなことを考えていたのではないだろうか。また、話は飛ぶが「小春おばさん」の出だしの歌詞「風は北風冬風~」では、短編小説「風の又三郎」を彷彿させると前に書いたが、陽水はどうも、宮沢賢治の愛読者ではないかと思われる節がある。そのような関係の人に「君の言葉は誰にもワカンナイ」とは言わないのではないかと。1978/12に長男の准介さんが生まれているので、この頃は3才くらいである。 私の場合は、日々の生活に追われて、そんなことを考えている余裕はなかったが、陽水なら可能だったのではないだろうか。まだよちよち歩きの息子を眺めながら、遠い将来を想像して、「ワカンナイ」と呟いているのではないだろうか。
「雨にも風にも負けないでね 暑さや寒さに勝ちつづけて」。いろいろ辛いこともあると思うが、負けるなよということか。「一日すこしのパンとミルクだけで カヤブキ屋根まで届く 電波を受けながら暮らせるかい?」。ひもじい時もあるかもしれないし、まともな家に住めないかもしれないが、そんな時は、我慢するしかないからねと。「南に貧しい子供が居る 東に病気の大人が泣く 今すぐそこまで行って夢を与え 未来の事ならなにも 心配するなと言えそうかい?」。貧しい子供や病気の大人に、生きる勇気を与えられるような人になれよと。「君の言葉は誰にもワカンナイ 君の静かな願いもワカンナイ」。君がどんな夢や願いを抱いているのかは、俺にはわからないけれども。「望むかたちが決まればつまんない 君の時代が今ではワカンナイ」。夢や願いが在り来たりなことなら、それもつまらないことではあるが。とにかく、君が大人になった頃の時代がどうなっているかは、俺にはさっぱり分からないと。「日照りの都会を哀れんでも 流れる涙でうるおしても 誰にもほめられもせず 苦にもされず まわりの人からいつも デクノボウと呼ばれても笑えるかい?」。君が努力して、世の中が少し良くなったと思っても、周囲はそのことを全く評価しないどころか、役立たずぐらいにしか思ってもらえないかもしれないが、それでも笑って過ごせるかいと。
陽水が望んでいる、しかしながら自分はできなかった人としての理想の姿を息子の将来と照らし合わせているのかもしれないが、息子の将来のことは、陽水には全く想像さえできないと現実を直視しているようだ。最後に私事ではあるが、先日娘に男の子が生まれまして、なにかこの曲が子供の誕生を祝福しているように感じている次第である。