今日は「ジェラシー」について考えてみたい。 1981/6シングル盤としてリリースされた曲である。 「とまどうペリカン」で書いたように、この頃は子育て真っ最中の時期である。
「窓辺にたたずんでる君を見てると 永い年月に触れたような気がする」。窓辺にたたずんでる君とは、妻であるセリさんのことではないだろうか。子供がぐずったりしたのを寝かしつけた後に、ふと窓辺から外を眺めている姿を見て、女性の強さと逞しさを感じているようだ。子供を産んで育てるという太古の昔から脈々と続いてきた女性の特権に対する畏敬の念のようなものを感じていて、それを「ジェラシー」と表現しているのではないだろうか。
 「夕焼けの空のどこかで 忘れた愛が忍び込む 流れるのは 涙ではなく汗」。そんなジェラシーを感じたことにより、毎日慌ただしく繰り返される日常で、忘れていたセリさんへの愛情を再び感じているようだ。その愛情というのは、尊敬と畏れが同居しているような感情であり、思わず汗が流れてくるような感覚であると言っている。「春風吹き 秋風が吹き さみしいと言いながら」。さみしいと感じているのは、子供とセリさんの間にある濃密な関係から疎外されていると感じている陽水であろう。
「はまゆりが咲いているところをみると どうやら僕等は海に来ているらしい ハンドバッグのとめがねが はずれて化粧が散らばる 波がそれを海の底へ引き込む」。セリさんは、子育てで毎日てんやわんやな状態なので、化粧なんてしている時間もないようだと言いたいのだろうが、「はまゆり」とか「ハンドバックの中の化粧が海の底に引き込まれていく」という表現は、とても繊細で、かつロマンチックであり、陽水らしい表現であると感じられる。
「ワンピースを 重ね着する君の心は 不思議な 世界をさまよい歩いていたんだ」。母としてのセリさんと女としてのセリさんの二役を「ワンピースを重ね着する君の心」と言っている。「誰にも云えない事がある 泣く泣く僕も空を見る むなさわぎで 夏が来るのが恐い」。そんな二役を自然と演じている妻を見て、「むなさわぎで夏が来るのが怖い」と自分の心情を表現しているのである。
作家の沢木耕太郎さんが、酒場での陽水との会話で印象に残っている一言を語っている。「僕は作詞家だよ、作詞の方が得意なんだよ」と、割と真面目な顔で反論していたと。作詞家としての才能が遺憾なく発揮されている曲ではないだろうか。それゆえに言葉で説明するのが非常に難解な曲であり、情景とその背景を想像した上で、メロディーと共に感覚で理解すべき曲ではないだろうか。 と同時に、子育ての若い頃には感じてなかった女性の逞しさに、改めて感銘を受けているところである。前に、男と女の間には、渡れぬ河があるとも書いたが、まるで洪水の時の大河のように濁流が流れていて、どんな男も向こう岸にたどり着けないと現実を受け止めざるを得ないのではないだろうか。そんな現実を「ジェラシー」と表現している陽水に完敗である。