今日は「クレイジーラブ」である。 人気絶頂で1980/10に引退した山口百恵さんに提供した楽曲である。「My House」でも述べたように、1980年代は安全地帯や中森明菜さんへの楽曲提供も行っており、作詞作曲の依頼が多く舞い込んできていた時期のようだ。1978/10が、大麻での執行猶予2年が終了した年であることと関係あるのかもしれない。
百恵さんは私もファンで、特に「秋桜」は大好きな曲である。21才の若さで引退し、その後一切テレビにでていないので、精神的にとても強い女性であるというイメージであるが、陽水から見た百恵さんは、必ずしもそうではないようだ。
まずはじめにタイトルが面白い。百恵さんは常に冷静沈着に見える人だが、友和さんへの愛情は、クレイジーであると表現している。歌手を続けていれば、手に入れられるであろう名声や財産をあきらめるほどの愛情の持ち主であるという表現にピッタリではないだろうか。百恵さんの決断は、常人にはなかなか出来ないことであり、内に秘めた感情は計り知れないものであるという意味であろう。見た目とのギャップを上手く表現している。
「粋で悲しい クレイジーラブ」。百恵さんの引退は、「粋」であると言っているが、「潔い」という意味であろう。また、陽水にとっても悲しい出来事でもあると感じているようだ。「私 ひとりが幸福を 胸に飾るだけなの」。幸せを感じているのは、あなただけですよと。「夜にゆられて さまよう先は もっと 真夜中になれば クレイジーラブ」。このフレーズは、脚本家の内舘牧子さんが陽水のラブソングについて語っていた次の言葉に集約されている。「陽水さんは、どんな歌を作っても、どんな歌詞を書いても下品にならない。最終的には彼自信が持っている品性じゃないかなという気がしている」と。説明すべきものではなく、それぞれの感性が受け止めるべきフレーズであろう。「夏の終りの夕暮れに 消えそうな空に 夢を 私がえがくのは 特に意味がないから」。夏の終わりとか夢という言葉は、陽水の好きな言葉であるようだ。例えば「夢の中へ」や「少年時代」にも登場するが、「特に意味がないから」と言っているので、素直に受けとめたいと思う。百恵さんとは特に関係のないフレーズなのだろう。時々こんなことで遊んでいるようだ。
 「風に追われて ながされている」。見た目は冷静沈着な百恵さんだが、実はそうではなくて「ながされている」のではないだろうかと。「月が 私を許すなら 後もどりもしたいわ」。もしかしたら本心は、引退なんかしたくないと思っているのではないかと。揺れ動いているであろう百恵さんの心の内側を想像しているようだ。ヒット曲を出しても、直ぐ忘れ去られる歌手がほとんどの世界で、引退して40年以上経っても、しばしば話題にのぼる百恵さんに拍手喝采である。