今日は「五月の別れ」について考えてみたい。1993/3シングル盤としてリリースされている。この曲のゆったりしたメロディーからは、何かを思い出しているような余韻を感じてならない。
男女二人の関係を、風や木々や青空といった自然を通して表現していて、人間と自然との一体感を醸し出している曲である。登場人物から想像してみると、「木々の若葉は強がりだから」から、若い男女のようだ。若い時は、男女関係においては特に、自分中心になることがあると言いたいのか。次に、どのような状況で、別れようとしているのだろう。「風の行く流れに逆らうばかり」から、順調に進んでいるように見えた状態が、ちゅっとした言葉の行き違いのようなことで、後戻り出来ない状況になっているようだ。
また、「鐘が鳴り花束が目の前で咲きほこり」から、どうも、結婚式を目前にしていたことが伺われる。更に「いつか遊びに行きたいなんて」とは、心の奥底では、別れたくないと叫んでいるようだ。「微笑みを浮かべて五月の別れ」。泣きながら「別れないで」と言えば、元の状態に戻れるかもしれないと分かっているのに、それができないプライドの高い女性なのだろうか。「月と鏡はおにあいだから」。月は男性で、鏡は女性であろうか。男性は、月のような存在、内向的で口下手だけれども、淡い光で静かに女性を照らしているような状態、一方で女性は、自分の感情に素直になれない、気の強い女性なのだろうか。元々はお似合いの二人なのだが。
「星の降る暗がりでレタスの芽がめばえて」とは、ちゅっとした行き違いで別れることになり、幸せな将来が途絶えたようにみえるけれども、一方で、新しい希望の光も芽生えてきていると言っている。その希望の光とは、「愛された思い出」という事実なんだと。
1993年は、陽水45才の時の曲である。49才の時に作った「長い坂の絵のフレーム」で、50代を「自分が一番常識的に輝いていた事柄を確認するのがすごくうれしい年代」と表現していることから、40代後半頃から、自分の若い頃を時々思い出していたものと思われる。結婚を目前にして、別れてしまった女性のことを思い出しているということなのかもしれない。
1974/1、陽水25才の時に熊本出身の女性と結婚しているが、2年後に離婚している。また1978/8、30才で、石川セリさんと二度目の結婚をしているので、20代後半の出来事なのかもしれない。私自身の20代を振り返ってみても、自分勝手で、今の自分から見れば、「なんであの時、あんなこと言ったんだろう」ということがあったように思うと、若い頃の自分本位な行動は、いつまで経っても後悔として忘れられないものなのだろう。