今日は「ミスコンテスト」である。この曲で陽水は、ミスコンテストを批判しているのだろうか、それとも、もっとやれと声援を送っているのであろうか。
何度か繰返し聞いていると、何故か「虚構と現実」という言葉が浮かんできたので、少し調べてみた。戦後社会学を牽引した社会学者の見田宗介によれば、「現実」という言葉は3つの反対語を持っていて、「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」だそうだ。こうした観点から、戦後の時代を3つに分類しているらしい。プレ高度成長期(1945年から1960年頃)を「理想の時代」、高度成長期(1960年頃から1970年前半)を「夢の時代」、ポスト高度成長期(1970年後半以降 )を「虚構の時代」として規定しているようだ。そして、虚構の時代は、1995年を境として崩壊したということらしい。この曲は、1978/7にリリースされたアルバム「White」に収録されているので、上述の定義にあてはめれば、「虚構」ということになるが、どうであろうか。
陽水の歌詞を「虚構と現実」に振り分けてみると、「水着に着がえて、化粧には力を、会話をみがいて、微笑を整え、全国から来た美人の群れ、レディス&ジェントルマンが見る、大理石の様な壁紙、黒いタキシード蝶ネクタイのたよりなさそうな司会者、シャンデリアがゆれる、厳正な審査、順番を決める封筒、審査委員長はムツカシカッタと言う」と、ほとんどが虚構のように見えてくる。
審査そのものが、一部の人間によって行われている以上、それによって決まったNo.1もまた、嘘っぱちだと言いたいのだろう。現実は「誰も見ていない舞台の裏で何も決めてない掃除婦が働く」だけである。ミスコンテストは、時代を象徴する虚構の出来事であると言いたいのだろうが、陽水は、だからミスコンテストを止めろと主張しているようではないようだ。この辺がいかにも陽水らしい。
また、話が飛躍するが、「敗戦と焼け野原」という戦後の現実に立ち向かうためには、相容れないふたつの意思があったはずである。競って、他人を蹴落としてでもNo.1になろうとする意思と協力とか協調と教えられたことを守ろうとする意思である。このふたつの意思を違和感なく使い分けることが理想なのだろうが、なかなか難しい。従ってそれを容易に実行するすべが虚構と現実の区別に鈍感になることなのかもしれない。
余計な話を思い出したのだが、子羊を見て「可愛いい」と叫んだ後に、ラムを美味しそうに食しているような人達が、今の世の中を動かしているのかもしれない。