今日は、1974/10にリリースされたアルバムのタイトル曲にもなっている「二色の独楽」について考えてみたい。
独楽という漢字は、陽水のアルバムで初めて知ったのであるが、とても面白いタイトルだなと感心したのを覚えている。今回改めて意味を調べてみると、「どくらく」と読んで「ひとりで楽しむこと」ということらしい。
話は逸れるが、富山の宇奈月温泉に独楽園というところがあって、地元で高名な人が晩年独り暮らししていたところらしい。独り暮らしが、そんなに楽しいとは思えないが、工夫次第では、その様な心境になれるのかもしれない。
既にアルバム「氷の世界」が大ヒットし、歌手としての地位を築いた陽水にとって、ヒット曲にそれほどこだわる必要もなくなっていたのではと思われる。デビューで挫折し、どうしたらヒット曲を産みだせるのかを必死になって試行錯誤していただろうことは容易に想像できる。そしてその結果、自分の思惑通りになったわけだから、それなら今度は、聞いている人が何を求めているのかをあまり考えず、自分の思い通りの曲を書いてみたい、という意図でのタイトルだったのだろう。しかし、逆に焦点がぼやけてしまっていると感じるのは俺だけであろうか。
「女はさみしい 男は悲しい さみしい 悲しい独楽がある」「あの娘は ひとり ひとりで泣いた 小さく ひよわな 独楽がある」「きれいだよとても 生きてるんだね はかない はかない 独楽がある」といったフレーズは、何を言いたいのかが響いてこないと感じるのは俺だけだろうか。「女はさみしい 男は悲しい さみしい 悲しい独楽がある まわれよ 止るな いつまでも 止った時 春も終るよ」。さみしい女と悲しい男でも一緒になれば、春が来ると言いたいのだろうが、どうも納得できない。一緒になっても、別れる場合も良くあるじゃないかと反論したくなる。
前作「氷の世界」で雨が降って傘がなくても、とにかく彼女に会いに行く、何が何でも会いに行くというひた向きさが「二色の独楽」には感じられないのは俺だけだろうか。この唄の良さが理解できない状態が続いている。
ここで、ちょっと自分の若い頃を振り返ってみると、結婚当初、子供が生れた時などは、子供のためと思って嫌な仕事も続けられたように思うが、子供が大人になって手がかからなくなると、今度は自分の為になにかやろうと思っても、自分の為というものが、何もないことに気づかされてしまったのを覚えているが、何かそのような感覚と似ているのではないかと感じた訳である。
また、このコロナ禍で有観客のコンサートが出来なかったことで、観客のためというか、観客の前で唄うことの意義をあらためて痛感したという誰かのインタビューを聞くと、歌手という職業の本質が見えてくるように思う。
なお、相手のことは考えずに自分のやりたいようにやるという意味では、アルバム「招待状のないショー」のタイトル曲が1976/3に発売されており、この曲の方が自然体でシックリ来ると感じられる。