コミュニケーションのためのツールとして
( ̄▽ ̄)少し思うところがあってコミュニケーションに必要なツールのひとつとしての「言葉」というものを考えてみようと思います若者の言葉の乱れがよく言われますがこのようなことは今に限ったことでもなくまた「乱れた」言葉も「ツール」として一般に認知されれば立派に生きて辞書にさえ記載されていきます「隣」 この漢字も元々はこざとへんが右側の「つくり」になるのが正字とされているようですつまり「誤用」が一般化されているわけですよね「独壇場」 擅(せん)の字を読み違えて使ったものが今では誤用が当たり前になってしまった例です「どくだんじょう」を「どくせんじょう」などと言ったら間違いだ と言われてしまうかもしれません「山茶花」 読み方がひっくり返ってしまった例です本来なら「さんざか」と読むべきでしょうがなんとも発音しづらいですね「・・・な・・・そ」 これは現代語としては使うことはありませんが北原白秋の歌の「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと・・・」という作品に出てきます軽い否定の言葉で 「どうか鳴かないでくれ」という意味で2度繰り返しているのですが2度目の「な」を省略しています厳密にいえば間違いですあえて省略することでリズムをよくしているということですさすが白秋ですよね「まじ」 (まじ、やべぇ!) (まじかよぉ!) よく若者たちの間から聞こえてくる言葉ですでもこれ 新しい使い方でもなく江戸の昔からあったようです そして今風にアレンジされて使っているのですこれらの例はまだまだたくさんありますつまり 言葉とは「ツール」なのですコミュニケーションのために私たち人間が後から作り出してきた道具であってその集大成が辞典なのですよね辞典に反した使い方も大衆に認知されれば「慣用語」とか「誤用」とか但し書きありながらも堂々と記載されることになります時が経てばそれらの但し書きもなくなるかもしれません長々と書きましたが私のブログの前の頁で「推敲」を使わず「添削」を使いました独りよがりながら長いことブログに曝した作品を今更「推敲」ということにずっと抵抗がありました頭の中では「添削」がいいなと思いつつも辞書的には間違っていますので 毎年それは使わず「手直し」 「手を加える」と表現してきていたのですがいつの間にか 油断とともに人目に曝してしまったという感じです案の定 突然ドアを開けられて来られたような訪問(コメント)を受けびっくりしたというのがこれを書くきっかけになりました決して謙遜ではなく正真正銘浅学の身であれば辞書は常に傍らに無くてはならないツールですしかしそれに拘泥してしまうのは感性をゆたかに発揮できないのでは?私が言ったところであまり説得力もなさそうですね^_^;やはり「たかが」私のブログもし読んで気がついた方がいらしたらどうぞさりげなくスルーしてください