いじめ後遺症を強く訴えようとする、その時、分断を引き起こすような態度を取りがちになる。態度というよりはその根っこの心がそうなっている。かたや、のんびりとSNSを見ていると、「始めたばかりでハーモニカがまだ上手く吹けない。で、ハーモニカのプロの友達にアドバイスをもらうと……」何てことが書いてある。友達。恐らくは友達が多い人なのだろうと思って見ている。人に明るくまたは誠実に挨拶をして、相手との違いを認め合いつつ共通点を見つけようとしていく。相手のよい部分を見つけてはほめて肯定していく。この素晴らしいエネルギー、僕の憧れる、この素晴らしいエネルギーとは、違った方向に向いてしまうことを僕はよく感じている。何もひっかかりなんてスルーして、そんなことよりもって、なかったような感じにして、気にしてないような感じにして、フワッとその場の雰囲気に流されてみる振りをしていくことで、調和や融和が保たれるのだろうかと思うこともある。いじめはいけないことだと伝えることなど、必死の思いで正義を訴える時に、その場の調和が崩れてしまうような気になる時がある。僕はいつも注意深く、いじめのような邪悪がまかり通ることがないかといつも繊細に目を光らせている。表立って発言することが無い時にも、心ではいつも葛藤を抱えている。私の住む場所の近くには中学校がある。学校からの帰り道に、いじめじゃないのかと、ふと、立ち止まって、生徒の集団を見つめるときがある。この声かけが難しい。変質者に仕立てあげられたとしたならと考える。難しい。学校や教育委員会が、もっと地域のみなさんに気軽に声をかけてもらいたいというメッセージがあるのなら、まだ、声かけもしやすいのだろうか、どうなんだろうか。理想なのかどうかはさておき、中学生の彼らと仲良くなって、会えば気軽に話が出来る関係になっていれば、駄目だぞと、心を込めて、いじめ加害をしてしまう人間に話ができるのだろうか。
ちょっと待って!
みんな、皆さん、ちょっと待って!
なんか、皆さん楽しそうにしてますけども、私たちいじめ被害者にとって侮辱的なことが、その場の交歓会で行われてるんですけども!
と、実際に割って入るか、実際には行動に移していないが、心の中では非常に激しいマグマが煮えたぎっているのをこらえているか、そんな状態に多くの場合に直面している。時々スルースキルを使うこともあるが、スルースキルを使うということは、他のいじめに苦しんでいる人々の苦しみに目をつむるような行為であると僕は思っている。
さらに、その罪悪感さえもまとめてスルーしてしまうこともある。
冒頭で書いた通り、掻き乱し分断へと向かいかねないいつもの僕のエネルギーと、憧れの調和へのエネルギーとの違い。
できうる限り、後者のエネルギーを多く使いたいと思っているが、それを犠牲にして、いつもの僕のエネルギーを使うことを選択している。
後者のエネルギーを使うためにも、スルースキルを使うことがある。ただそれでは正義に背いているような思いもある。
そんな葛藤について、書いておきたいと思った。