2017/06/11 | 晴れわたる青空の下で

晴れわたる青空の下で

人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

いじめは、いじめた側が千パーセント悪い!

について考えてみます。

この文だけを見るなら、言葉通り100対0どころか、1000対0の割合で、いじめた側が悪いということです。


意味は、いじめられた人は悪くない、過失は一つもないということです。

そして、いじめた側、つまり、側とは複数人であり、被害者1人に対して、多数のあらゆる人々、加害者、観客、傍観者、教師、学校、親、教育委員会、または、国、社会などを指すのではないかと思います。

さらに、この言葉の背景には、いじめに苦しんでいる中学生が相談をして、僕にもかたい部分があり、自分にも原因があるのかもしれませんという吐露に対して、そうじゃないんだよ!とあたたかく、また力強く否定されます。

さらに、いじめの惨たらしい被害体験を聞き、いじめた側が百パーセント、いや、千パーセント悪い!と断言された。

この言葉には、もちろん義憤も含まれていると思いますが、自分にも悪いところがあったのかもしれないという、いじめ問題に隠れていた被害者の大きな悩み、自分にも改善の余地があったのではという葛藤の苦しさを吹き飛ばす強さがある。
いじめは、いじめた側が千パーセント悪い!

とは、いじめた側の甘ったれた言い訳を斬り、中立の立場でいじめ問題を検証しようとする人々のいじめへの甘さ、人権侵害への甘さを否定し、エンドレスなどうどう巡りを繰り返し葛藤している善良な人間である中学生の答えの出ない迷いを切り裂く言葉でもある。


もちろん、いじめに苦しんでいる人の迷いを晴らすために。

この言葉が生まれるまでは、いじめられる人にも原因があると考える人が99パーセントいたと思う。

この言葉が生まれる前までは、

いじめは、いじめた人間の方が比較的に悪いんじゃないかと思う。

というのがだいたいの意見だった。



被害者も、加害者も、傍観者も、観客も、教師も、学校も、社会も、国も、被害者の親も、加害者の親も、教育委員会も、テレビをはじめとするメディアも、善良な大人でさえも。

私もこの言葉に出会うまでは、ずっとシビアに自分の問題点は何だったか。それを突き詰めて悩み抜き、親の育て方が悪かったからか、いや、生まれてきたこと自体に罪があったからなんだという所まで悩んでいて、僕は生まれてきてはいけなかった、忌むべき存在として、がん細胞のように人に害悪のみしか生まない宿命を背負い、生まれ、いつか犯罪を犯し、太宰治のあの主人公のように精神病院で一生を過ごし死んでいくしか道はないと真っ直ぐに思い込んでいた。

自分の匂いや、汗でべとつく肌、オイリーな髪の毛、曇った声、ぎらついた目つき、吐く息全てが化け物のように感じていた。

ちなみに、この言葉に出会う前にBluesに出会っていた。

さて、もう少し続けよう。


この言葉を発した人間の心や思いはどんなものか。

いじめは悪であり、最大の人権侵害の1つである。

それを声高に言うことが目的ではなく、いじめという非人道的な行いを無自覚にしてしまっている未成年者に気がついてほしいという気持ち。

いじめに苦しんでいる人の気持ちを軽くし、苦しみを少しでも取ってあげたいという気持ち。

正義を馬鹿にする風潮への強い心配。
その悪への甘さが招く、被害者の背負っている苦悩の大きさ。

人権侵害を行う者が、大きな顔をして、社会にのさばり、善良な人間が、自死へまで追い詰められているという現実。

互いにいじめない、もっと素晴らしい人間関係の構築、善の連帯、他者を思いやり、違いを尊重し、人間1人の命は地球よりも重いという言葉を噛みしめていく。

それは決して、ガチガチのルールで縛るということではない。

Kワードの禁止についても、それはクラスメイトへの呼びかけではなく、彼らが真似てしまう、テレビへの呼びかけである。

表現の自由とは何だろうか。

最近はあまり見かけないが、テレビは規制だらけだという愚痴をテレビからよく聞いた時期がある。

長年テレビは、必死の声を黙殺し、声を無視し続けてきた。
嫌なら見るな
と受話器を叩きつけて切ってきた。


双方の思いを尊重していこうという正常な時代にようやく突入出来たのだ。

LGBTもそうだし、宗教や信仰についてもそうだ。

何年か前までは、イスラム過激派と善良なイスラム教徒を、十把一絡げに扱っていた時期がある。

ほんの数年前から、イスラム過激派と善良なイスラム教徒とを切り分けて報道できるようになってきた。

いじめとテレビの強い危険性については、多くの心ある先人たちが厳しく声を上げていた。

僕は、テレビに出てる人の気持ちを出来るだけ考え、推測し、いじめというポイントだけを絞って、今テレビに伝えている。

今、テレビの最大の誤りは、Kワードの軽視にある。

それはそうと、私はこの言葉に救われた多くの人の中の一人に過ぎないが、あの時、相談を寄せていた中学生は、今、どんな気持ちで生きているのだろうか。そんなことを時々考える。

2006年、テレビがホントに酷すぎて、黙ってられなかった。

テレビに意見や苦情を送ることは、ホントに勇気がいったし、自分の考えや思いが、ここまで聞いてもらえるとは思っていなかった。

テレビ界の中の誰かが、うまくやってくれると、思ってた。
そのうち、心ある政治家が何らかのメッセージを打ち出してくれるかもしれないと思っていた。

だけどテレビから聞こえてくる内容は、無知すぎたし、酷すぎた。

かなり待った。誰かが上手に纏めて、スマートに、理路整然とやってくれると。

待っても待っても的がズレた意見が交錯し合い、議論は空中分解を繰り返していた。

ホントにひどかった。

気づいてるのはぼくだけだから僕がやると思って始めた。

難題山積だったが、Twitterとブログを使い、かやり多くの視点論点を矢継ぎ早にランダムに打ち出していったのだと思う。

苦しかったが、ひとつひとつが間違いない自信があった。

去年二月からの対決は疲れた。

どう伝えるか考えあぐねて、一年間その番組に向き合うことにした。
向き合い方が不十分であったとは思うが。