いじめ負のオーラ論について、できるだけ冷静に考えてみる。
いじめは、いじめた側が千パーセント悪い。
負のオーラ論の勘違いの多くは、君が彼をいじめたから彼は、ネガティブな思考に陥るという状態になっているんだ、ということ。
またいじめられやしないだろうかと恐怖を感じることは、とても自然なことである。
この鎖を断ち切るためには、時間がかかる場合が多い。
さて、いじめ加害者が悪いのは間違いないとして、たった1人の加害者への対応が、世の中すべての人々への対応へと拡大していくことがある。
しかし、それは、歪んだレンズで物事を見ている状態であると思う。
これを正視眼へ戻していく、いじめ加害者への恐れを払拭する瞬間があなたの生活の中で時々訪れている。
私たちは時々、正視眼で世の中の人々を見ることが出来ている瞬間が数多くある。
さて、ここで負のオーラ論であるが、負のオーラをいじめ被害者が持っていて、その人が苦しみ始めると周囲の人々の中にある感情を刺激してしまい、周囲の人々が無意識に、苛立ったり、攻撃的になったりするというもの。
1つは先述したいじめ被害により、いじめ後遺症が起こり、そこで芽生えた感情が負のオーラを出してしまう。
そしてもう1つが、いじめ被害にあっていなくても、負のオーラを何らかのきっかけや原因で持ってしまっているという場合。
どちらにしても、深く織り込まれたプログラムが発動し、自己防衛が始まる。
針ネズミやスカンク、カメレオン、カメムシ等等、動物のなかには危機を感じると自己防衛が働く。
負のオーラと呼ばれているものとはそんなものに近いのではないかと思う。
それらを、動物と人間の違いと考えてみるとどうなるだろうか。
自己防衛による変化は、本能的ではあるが安易な反応の仕方であると考えるとどうなるだろう。
動物の世界では外敵は異種であり多種多彩である。体の大きさも全然違う。
人間の場合は、ほぼ同じである。
体格差や成熟度があまりにもかけ離れる場合には、いじめがおこらない場合もある。起こる場合もよくあるが。
話を戻す。
動物による自己防衛が本能的ではあるが、短絡的であると考える場合、人間には何ができるというのか。
私たちをきつく縛っている鎖を断ち切るために、工夫と努力を重ねていくことで克服できる可能性があるのではないのだろうかということ。
つまり、負のオーラを自ら消去したり、別の明るいオーラへと変換できるんじゃないかと。
動物が本能的で短絡的と決めつけてしまうのもどうかと思うが、私たちは、この単純化された防御を反応的に行うことを繰り返し続けてもいいのだろうかと思うのだ。
時として本能的な防御は有効だしどんどん使えばいいと思う。しかし、いつまでもいつまでもこの短絡的な防御を繰り返していると、簡易なオモチャのように、本来の自分の可能性を塞いでしまってはいないだろうかと思う。
今回私の場合、簡易なオモチャのようにギクシャクと踊り、「またその踊りですか」
と言われたような気分だった。
顔を赤らめて、ギクシャクして、「はいはい。またそこでシンバル3回叩くんでしょ」
と言われたような気分だった。
「仕方ないだろう!」
と嘆いてみても、そんな簡易なオモチャしか僕は持ち合わせることができないのかと自分が哀れで悲しくなった。
一生私はシンバルを3回叩くしかないのか。
動物であればそれしかないのかもしれないが、私達人間には、その短絡的なバネの伸び縮み以外のものを産み出せるのではないか、違う次元での飛翔が出来るのではないのかと思うのである。
今日はここまで。