黄薔薇の雫(下) | 晴れわたる青空の下で

晴れわたる青空の下で

人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

 次の日、アガン少年は空き地にやって来ていつものように風が語りかけてくれるのを待ちました。

「聞こえない」

「ああ、聞こえない」

「過去30年間の風の声を聞かせてやろうか?」

「そんなことが出来るのか?」

「録音している。私は30年間ずっと、君が言う風の語る声を聞いてきた。君が帰ったあと、音の無い静かな時間を過ごした。寂しかったから、録音していたものを一晩中聞いていた」

「聞かせてくれ」

「ああ、かまわない。しかし、条件がある」

「なんだ?」

「学校に行け。毎朝、30分早くここに来れば30分だけ録音している風の声を聞かせてやる」

「わかった」


「今日は聞かせない。明日の朝から30分だけ聞かせてやる」

「わかった」

 少年アガンは、いつもよりも早く家を出て、空き地で耳を済ませた。すると数日ぶりの懐かしい声が聞こえてきた。

「小動物が木の実をかじる音はいつ聞いてもいいね。優しい気持ちになる」

「水田を滑るアメンボがね、今日は水の上は嫌だとすねているよ」

「もうすぐ、タヌキに子どもが生まれるね」

 心地の良い響きに、少年アガンは嬉しくなった。

 しばらくすると風の声が止んだ。

「時間だ」

 アガンは、ため息を一つついてその場を後にした。

 いつもの朝、録音された風の声が流れた後、聞こえてきたのはこんな言葉だった。


「今日で1000回だよ。第一巻が終わりだからね」

 三年が経っていた。アガンは16歳になっていた。

「あと9巻ある」

「30年分だからな」

「どうする」

「何がだ?」

「お前にとってまだ必要かと聞いているんだ」

「風の声は必要だ」

「だが録音だ。今の風の声じゃない」

「今の声を聞かずしてどうするんだ」

「今の声?」

「そうだ。お前もいつの間にか声も変わった」

「変声期だからね」

「なんてジョークだ」

「ふふ」

「はは」

「これが君が言う今の声か?」

「そうだ。風が生まれた瞬間の声を聞くんだ」

「風が生まれた瞬間の声……、ありがとう」

「どういたしまして」


「ところで君はどうするんだ」

「風の録音を聞き続けるさ」

「それでいいのか?」

「それ以外にやりようがない。君に録音を決まった時間に聞かせるという仕事からは解放される」

「それでいいのか?」

「何がだ」

「君は生きた風の声が聞こえないのにどうするんだ」

「そうだな……。君に頼みたいことがある」

「何だ」

「花の香りをくれないか? この空間を満たす花の香りを」

「構わないが、どうやって」

「この空き地を花でいっぱいにしてくれ。そうすれば地下まで届くかもしれない」

「前にも言ったがここは私の土地ではない」

「では誰の土地だ」

「それはわからない、いや、この土地は」


「これだけ毎日通い続けたのだから、誰かに会わなかったのか」

「誰か……、……」

 アガンは思いを巡らせます。

「ここは誰かの私有地で、私が毎日通いつめていることを、その人は知っている。話したことはないが」

「どんな人間だろうな。で、学校は大丈夫なのか」

「今日は祝日だ。時間はある。心配するな」

「それならいいが」

「おそらくはあのじいさんだ。今度伝えてみる」

「頼む」

 アガン青年は、空き地の持ち主を突き止めて、ここを花でいっぱいにしたいと伝えます。

「 何故だ?」


 と老人は問いました。地下に人がいるとは言いにくいので、青年はいっそのこと空き地を掘り返して地下室にいる彼を出してやってはくれないかと頼もうとしました。しかし、それはあの人に許可を取る必要があると感じたのです。

 一度、持ち主に会ってみるとなかなか空き地に行きにくいものとなることを青年は知りました。迷い続けている姿を見て老人は、

「もう用が無くなったかと思っていたが、花でいっぱいにしてくれと君は言う。もうしばらくは良いと思っていたが」

 青年は悩みに悩み、こんなことを伝えます。

「あの空き地を私の墓にしたいと思うことがあるのです」


「墓? 面白いことを言う子だな。墓か、そうだなあ」


 しばらく老人は黙りこくり、何かを思案しているようだった。

「よし、わしの墓にしよう」

「え?」

「そこを墓にすれば誰もあの場所を荒らさない。花でいっぱいにしてしまうのは気恥ずかしいが、いくつかの花はあっていいだろう。心配はいらんよ。墓は君がいつもいる場所からは、少しずらしてやろう。荒らされない工夫もしなければならんし、おまえさんが気兼ねなく来れるようにもせにゃならん。考えれば考えるほど楽しくなってきたよ。そうだ。君はまだ若い。二十歳になったら正式に空き地の守り人とならないか」

「喜んで引き受けます」


 というわけで、地下に住むあの人に話に行くと案の定驚いていました。死人の隣になる上に、俺は生きたまま墓に住むのか、お前は就職先をも見つけたのだななどと言います。

「大丈夫だ。線香の香りは禁止にしてくれるそうだ。みだりに近づくことなかれと遺言もしてくれる。それとも」

「それとも何だ?」

「ここから出してもらえるように頼んでみようか」

「それはやめてくれ。暗闇に目が慣れてしまい眩しい光が恐ろしい」

「いつまでも地下に暮らすのか?」


「30年という時間、私は風の声を聞いて生きてきた。生きた声があるから嬉しかった。退屈しなかった」

「本当の事を話して、土を掘り起こしてくれるようお願いしてみようかな」

「好きにするがいい。そうすることでお前は録音された風の声を聞けなくなる。既に君は録音された過去の声を必要としなくなった。しかし、お前がしようとしていることは、どんなことかわかるかい?」

「わかっているさ。言ってみただけだ。そうするタイミングは君が決断しなければならない。追い剥ぎのようなことはしないさ。ただ、このまま地下で死ぬまでいてもいいのか。私は君に出会い、救い出す手段もある。君に会うのは正直不安だが」


「今の私はここにいることでこそ、存在意義があるのだ」

「君は私に学校へ行けと言った。同じ思いで私は君に外に出てこいと言っている」

 地下に住む者は人間ではありません。それを自分から伝えたくはなかったのです。自分が人間であると信じているアガン青年にどんな言葉を使おうかとナイタイは思い悩みました。

「忘れていないか。私は任務としてここにいる。お前が言うように出ようと思えば出られるのだ。お前は私から仕事場を奪うつもりか。30年以上かけて快適な職場作りに専念してきた私の居場所を奪うつもりなのか。お前には仕事の大変さも、それ以上の仕事で得る喜びについてもまだ知らないだろう」


「私は学校には行かなかった。しかし、一生の仕事を得た。だからと言ってあなたを閉じ込めて……」

「わからない奴だな。私は好きでここにいるのだよ。確かに不自由はあるさ。だけどな、誰かのために自分の人生を使う事は喜びなのだよ。私はここに留まる。たとえ君が来なくなっても、花の香りが無くても。もしか、この場所が荒らされてしまったとしても私は期限を迎えるまでここにいるだろう」

「期限とはいつまでだ?」

「君は花の香りを感じ、風の声を聞き、私と会話を交わしている。そうして、仕事の合間を過ごしている」

「お前は働き始めないと、それを理解しないだろう。ここの守り人以外に仕事が?」

「ない」


「やりたいことはあるのか」

「みつからない」

「お前にとっての天職をじいさんは与えてくれたわけだ」

「ああ」

「いやなのか?」

「まさか仕事に結びつくとは思わなかった」

「まあ、やりたいことが見つかるまで守り人をやればいいさ。君がいついなくなろうともう私は構わないさ」

 そう言ったきり、地下に住む者は何も言わなくなりました。アガンが何度呼びかけても何も答えません。不安になったアガンは、次の日の朝に、空き地の真ん中に座り込みました。目を閉じると、風の声が聞こえてきました。

「森が今日も膨らんでいきます」

「いつもの風の声だ」


 しかし、30分経っても風の声は止みませんでした。

「戦争がまた始まりました」

「今日も地震が起こりました」

「白色をした母親のクマが育児放棄をしました」

「火山が数十秒後に爆発します」

「夜の砂漠でまたラクダが死にました」

 今までに聞いたこともないような風の声が聞こえてきます。

 アガンはじっと耳を澄ませていました。

「ゴリラがピストルで殺されました」

「大きなビルが崩れました」

「雨が降らず川の水が無くなり、サカナたちが死にました」

 この日はそんな風の声を一日中聞いていました。

 明くる日も、アガン青年は空き地にやって来て目を閉じ耳を澄ませます。
 しかし、聞こえてくるのは悲しい出来事ばかりです。青年はじっとして耳を傾け続けました。アガンは自分が悲惨な風の報告を聞くことに心が折れないことを知ったのです。

 空き地の持ち主であるじいさんが亡くなり空き地は、お墓になりました。

ずいぶんと広いお墓です。アガンは墓の守り人となり、老人の墓石の真裏で風の声を聞き続けるのでした。

内容は楽しい語りもあり、残酷な語りもありました。それにじっとして耳をすませています。

 アガンは、様々な花を植えました。時にはサクラやウメ、キンモクセイも植えました。
 年老いてからは、自宅の周りに黄色いバラを植え、エッセンスを墓の真裏に数滴たらすのでした。
 野原には、一面にスミレの花が可憐に咲いています。