インターネットと私 | 晴れわたる青空の下で

晴れわたる青空の下で

人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

私がインターネットを使って伝えたいこと、それは何だったかを改めて考えています。


最近は、インターネット上で発言することになれてしまい、一番大切な伝えたいことが別のことにすり替わっているのではないかと思う時があります。


最近の私の書き込みは形骸化した言葉を羅列しているにすぎないとも言える。



私はブログをはじめ、インターネット上での発言を繰り返すこと、言い換えれば、言葉への思いの軽重に関わらず自分の思うことや考えていることを言葉にするということを2006年からはじめました。


それにより、当時無理解であった人々へ自分の正確な思いを端的に伝えることができるようになりました。



薬や病、いじめの後遺症により、支離滅裂となっていた私は、私の思いと多くの他者の持つ私への印象のあまりにも深い乖離に愕然としていました。



軽薄な世間の思想に同調した人々は、私からすれば手垢にまみれた偏見を押し付け、私を理解したとし、それを他者へも喧伝してしまうという、誰もが経験するであろう激しい葛藤に身を置いていました。


私は、投薬により考えをまとめることが困難でした。

何度も同じ言葉を繰り返し話し、その先の伝えたい気持ちを発することがなかなかできず、対話の中で時間だけが過ぎゆきました。


対話の相手にうんざりとした思いをさせてしまっていることを十分に理解していましたから、その相手への申し訳なさと、自分が伝えたかったことがほとんど何も伝わらないもどかしさとを強く感じていました。


「君は考えすぎ」

だとか、


「怠けているだけじゃないか」
だとか、


「何も考えずに散歩でもしたらどうか」
だとか、


そんな言葉を
何度も聞いてきました。

対話の相手は、私に対して悪意がないはずだ、彼は私を軽視しているわけではないのだと自分に深く言い聞かせる毎日でした。

アドバイス通り、真面目に実践を試みることもありましたが、私が伝えたいことは、やはり何も伝わっていないではないか!と悔しい気持ちになりました。


いじめ被害に遭ったことにより、私は複雑な困難を幾重にも抱えています。


インターネット上での発言は、私の抱えている困難への挑戦であったり、同じような悩みを抱える人々への思考回路の潤滑油となることを目指してのことでした。


インターネットをはじめて三年間は、他者との関わりをしようとはせず、発信のみに重きを置いてきました。


一昨年の11月に有益な出会いがあり、インターネット上で、実生活以上の深く熱い魂の交流を始めることができました。

妙音菩薩のことをガドガタといい、ガドガタとは「どもり」という意味があると教えていただいた時の衝撃は大きいものでした。


うまく自分の思いを伝えられなかった人間が誰よりも素晴らしい音楽を奏でるようになったという人間革命のドラマは当時の私にとっては大きな希望となりました。


Yahoo!ブログのIDにガドガタの文字を使った理由もここにあります。


私はいまだ、体調が悪く思うように行動をすることが困難です。

体が動かなくても指が動く。


理路整然とした思考ができなくても熱い思いがある。


そんなふうに私はインターネットに書き込みをはじめました。


まだまだ、私の努力は遠く妙音菩薩には及びませんが、インターネットのみならず、あらゆる場所で挑戦を続けていく決意です。


いじめに苦しむ小中高生に実際に会い、息づかいを感じ、会ってみないとわからない彼らの望むことを知ることが大切だと思います。拙速に行動するほど簡単な問題ではありませんから、私にできる最善策、または私にしかできない彼らへの励ましを毎日悩み苦しみつつ探しています。


矮小化していた自分自身の最近の書き込みを反省し、一人間としての成長を目指していきます。


なんのために生きているのか


そんな激しい葛藤に揺れるいじめを受けた人々のなんらかの力に少しでもなることができれば、私は自殺せずに生きてきた意味があったと言えます。


自分のために何かをしようとしても力は出ないという言葉を私はよくかみしめています。

他者のため、私の場合なら、いじめに苦しんでいる人々のために役立つことがあるのであれば、それは私にとってこの上ない喜びです。


どんなに苦しい状況でも、挑戦すること、あきらめないことが大事だと思います。