ではなぜ
ヤンキーと呼ばれる少年や
不良と呼ばれる少年は、人々から愛され、更生に成功しているのかを考える。
それは
彼らは、行動を起こしているのだ。
彼らの行動は滅茶苦茶だ。
今回はその悪さについては書かない。
彼らの行動は滅茶苦茶だ。
しかし、行動を必死になって起こしているのだ。
ケンカ
暴走
万引き
かつあげ
などなど行動を起こしているから何を考えてそんなことするのかが目に見えてわかる。
ヤンキーと呼ばれる少年や、不良と呼ばれる少年のファッションや、髪型は、とても派手で特徴的でよく目立つ。
今私がやっているブログスタイルと似ているのは、自分の今の感情の塊の部分をナマのまま、出し切ってしまっている。横溢した思いをさらけ出している。それを他人が見てどう評価するのかを冷静に分析し、自分もその他大勢の人々の一部となってその様子を見ているという一面も合わせ持つ。
私のブログは、私なりに生み出した正々堂々としたコミュニケーションの原型である。
彼らの反社会的で、直接的で、暴力的なコミュニケーションは私は絶対に使いたくない。
今でこそ、こうして訴えることが出来ているが、これが出来るまでは、対外的な本当の自分を訴える手段が見つからなかった。
少年たちによる反社会的なコミュニケーション手段を私は毛嫌いしている。
悪の限りを尽くして照れくさそうに笑って許されたと思っているあまったれの彼らと私はここが違う。
私は反社会的なことを嫌悪する。反社会的に見られがちな人権を復活させる戦いはしているが。
しかし、反社会的なコミュニケーションを使わなければ彼らも生きてこれなかったのだろう。出来るだけ最小限に悪事をセーブしてきたのだろう。
彼らはいまだに、乗り越えることが出来ないまま世に哀れな姿をさらし続けている。
何を乗り越えていないのか
自分たちが最小限だと思ってきた最小限だと思いこんできた悪事の残酷さと幼稚さに気がついていない。
一つは親不孝であり
一つはいじめだ。
親といじめ被害を受けた人々の共通項は
忍耐強くあり、彼らを許そうとすること。彼らの更生のために自分が踏み台になろうという自己犠牲の強いことだ。
親の場合は関係修復が可能だ。
やんちゃの限りを尽くした彼らが昔の罪を知り、温泉に連れて行ったり、「あの時はごめん」「苦労かけたな」と、声をかけたりする。
親子関係であるなら時間はかかっても修復出来るのだ。今は全くそんな気配がなくても。
だけど親にも寿命があるから、苦しくても一日も早く親孝行をできる自分に成長することが大切である。
では、いじめはどうか?
同窓会などで、昔いじめてた人間と言葉を交わす機会があるとき、
彼は、ついついやったことなんだ、子どもだったんだから許してくれるよなと、またいじめた人間に甘えて、なかったことにしようとするのだ。
親とは関係修復できる。もしも、親が早くに亡くなったとしても、親であるという事実は重くて、考えずにはおれない人々が多数派だろう。
いじめを受けた人々は、1人、誰も気づかない暗いポケットに落ち込み、悶々と生きてゆく。
例えて言うなれば、レイプ被害者が男の顔もわからず、逮捕もされず野放し状態でどこに自分の悔しさを消化すればいいか苦しんでいるようなものだ。
レイプ事件の場合は、レイプ魔が千パーセント悪いということに千人中千人が賛成するだろう。
いじめの場合は、まだその残酷さがなかなか理解されないという歯がゆい現実がある。
話を戻そう。
なぜヤンキーと呼ばれる少年たちは、あんなに正しく更生できるのか?
彼らには仲間がいる。
共に笑い、共に泣き、語り合える仲間がいる。
いじめを受けた人々は、それぞれが孤独であるというケースが多数派だ。
仲間や友達、話し相手がいない人が多数派である。
親もいじめぐらいのことでと相手にしない。
世間の人々も、心の中で、弱い子だなとつぶやいている。
とにかく孤独で自己肯定の機会が圧倒的に少ない。
ヤンキーと呼ばれる少年たちは、嘘と真実を混ぜて、自分たちの心に折り合いをつけている。
いじめ被害者は、常に一人で、真実は何かを懸命に悩んでいる。
次に言えるのは
その仲間たちとのコミュニティの中で様々な情緒的成長を飛躍的に遂げていく。人間は人と関わるように出来ているのだ。
互いに相手を肯定しあう仲間という存在が彼らの心を豊かにし、見事に部分的に更生を果たす。
部分的更生とはいえ、社会復帰のためには、事足りてしまうから、未完全な部分には目を向けることはあまりないだろう。
反対にいじめを受けた人々はどうか?
ここが深刻なんだ。
仲間も友達も話し相手もない。
十代のほとんどの時間をひとりで過ごす。コミュニケーションする相手もなく。今はネットがあるから、すこしではあるが本音のコミュニケーションができる。
そうすると、どうなるか?
ひどい喪失感がさいなむ。
友情も恋人も絵空事、純粋なあこがれはあるが、長いあいだ絵空事なのである。
本音のコミュニケーションをする機会がないぶん負担は親にかかる場合が多い。
今日はここまで。