世界市民の理念と淵源
紀元前四世紀、古代ギリシアの哲学者ディオゲネス、「あなたはどこの国の人か」と尋ねられ、「世界市民(Kosmopolites)」と答えた。これが人類史上はじめて「世界市民」という言葉が使われた瞬間である。ここで言う「世界」とはギリシア語で「コスモス」、すなわち秩序ある宇宙を意味する。したがってディオゲネスによれば、(宇宙の)秩序にのっとり調和のとれた正しい市民生活を送るものが「世界市民」であると考えられていた。
宇宙の理法と自然
ディオゲネスの精神を継承し、独自の哲学を展開したストア派の人々のモットーは「自然にしたがう」ことであった。この自然とは、一人ひとりに内在する「人間本性」であり、そして「宇宙万有の本性」を意味している。つまり、ストア派の人々にとって自然にしたがって生きるということは、人間と宇宙を貫く「共通の法」としての「宇宙の理法(logos)」にしたがって生きることであった。
この「宇宙の理法」にしたがって生きることが、人間にとっては「理性にしたがって正しく生きる」ことを意味し、自然と調和して生きることが人生の目的とされた。
宇宙の本来の姿は、「理法」よって秩序づけられた調和世界である。その「宇宙の理法」を理性によってとらえ、その「法」に基づいて自己を律する人こそが「世界市民」にほかならない。したがって、その人にとっては、宇宙が「家」であり、「祖国」なのである。
正義の原理
ローマの哲人キケロによれば、人間には生まれながらにして正義を目指しているという。しかも、その「正しさ」は、自然の本性によって決定されている。つまり、ある行為が正しいかどうかは「宇宙の理法」によって定められているというのである。
それでは、「正しさ」とはいかなるものなのか。キケロは、人間が「他者を愛する傾向」を本性として持っていること、これが「正しさ」の基礎であるとする。つまり、一人ひとりの持つ「他者への愛」が正義の原理であり、人間社会はその原理に基づいて成立しなければならない。そして、その構築は「世界市民」にゆだねられるのである。
また、ローマ皇帝であり哲学者でもあったマルクス・アウレリウスは、人間の善は公共性にあり、「宇宙の理法」は社会的であると述べている。「世界市民」が理性によって「宇宙の理法」を見ることは、同時に「他者への愛」に よって人間社会に参与することを意味する。したがって「世界市民」の社会的実践も、「宇宙の理法」に規定されている。
平和の創出
このような「世界市民」の思想は、やがて「世界市民主義」としてヨーロッパ精神史のなかで定着していく。その思想を現代的に展開し、新しい理念を付与したのが、ドイツの哲学者カントである。
カントの描く「世界市民」とは、世界をただ傍観するのではなく、その営みに参与する者である。すなわち、自分の幸福や自らの生活圏の事柄だけに関心を寄せるのではなく、自分がどの地域に住んでいたとしても世界の営みに参与すること、それが「世界市民」の生き方であり、そのことを可能にするのは、寛容なる精神と心の広さである。
ところで人格とは、人間を人間たらしめているものであり、決して手段とされてはならないものである。一方で、エゴイズムに起因する戦争は、人間を手段とし、人間の尊厳を最大に脅かすものである。人間の本性に根ざしているエゴイズムに対抗し、永遠の平和を創り出すために、カントは人格という観点から法を三つに分けている。
国内法としての「市民法」、国家を規制する「国際法」、そして人類を一つとする「世界市民法」である。「世界市民」の理念はカントによって、平和創出の原動力としての「法」へと昇華されたのである。
法とヒューマニズム
一方、東洋においても、「宇宙の理法」にのっとった人間像を理想としてきた。
古代インドの「梵我一如」、仏教の「大我」「真我」、儒教の「天人合一」などの思想に見られるように、東洋思想の描く人間像は、人間が宇宙の普遍的な原理に合一して生きるべきこと、つまり「宇宙の理法」にのっとって生きることを教えている。この点において、西洋の「世界市民」の理念とも深く共鳴しあっているのである。
「儒教ヒューマニズム」の提唱者であるドゥ・ウェイミン博士(ハーバード大学教授)は、「天人合一」における人間とは、世界の「共同創造者」であり、「関係の中心としての自己」として、地球全体に責任を持つべき存在であるととらえている。インドの「梵我一如」や「大我」の思想も、人間は宇宙創造への参画者たるべきことを訴えている。
友愛と共生
もとより「宇宙の理法」にのっとって生きる人間は、国境を越えて行動している。釈尊や孔子、さらには彼らの多くの弟子たちも、「宇宙の理法」にのっとった生き方を人々に説きつつ諸国を遍歴した。国や民族の違いにこだわらず、ただ「人間」を見つめ、人間同士の平等な友愛を唱えたのである。
釈尊は、「われは万人の友である。万人の仲間である」「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのでもない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」と述べている。
孔子もまた、他者を慈しむ「仁」の思想を打ち立て、「生まれや貴賤、身分などによる差別はない。だれでも教育によって立派になれる(教えありて類なし)」と訴えた。
以来、二千数百年――近代に至ると、「宇宙的人間」の哲学を背景に、「世界市民」的な自覚に立った国際協調の重要性を主張するアジアの政治家たちが現れてくる。
近代中国の指導者・孫文は、儒教や老荘思想を淵源とする「大同思想」に立ち、帝国主義全盛時代の世界にあって「世界大同」「人類の相互扶助」を訴えた。周恩来の「平和的依存」なども、同様の思想性を有する。
ガンジーもまた、東洋的な宇宙的人間の理念に基づく「世界市民」として、非暴力の思想と運動を展開した。ガンジーのとらえる真理とは「万物の一体性」であり、それを覚知した人間は生命愛、人間愛に生きるのだという。「真理」に生きる人間は、非暴力による平和創造の道を開拓していくのである。いわゆる「サティヤーグラハ(真理の把握)」である。
宇宙の中の人間
ガンジーとともに植民地支配に抵抗し、平和の創造に生涯を捧げた「世界市民」がタゴールである。タゴールが、公共的な社会人として担おうとした「全体」とは「世界」であり、究極的には「宇宙」であった。
その一方でタゴールは、母校はもちろん、あらゆる民族の自立した文化を愛した。
「宇宙の中の人間」(「サーダナ」)として、それぞれの地域の文化も重要視していた。究極の道=ダルマ(法)に生きる宇宙的人間は、真正の愛国者にして、かつ他国をも等しく愛する者であるとの、「世界市民」のあり方を示したのである。現実の大地を重んじる理想主義者が、東洋的な「世界市民」であるといえよう。
以上のように、東洋と西洋を貫く「世界市民」の思想的な淵源と系譜は、友愛・平等・教育・人格を重んじる根拠と原理を私たちに提示し、「宇宙の理法」にのっとった生き方こそ、「世界市民」精神的伝統であることを示している。
『世界市民 池田大作 識者が語る 平和行動と哲学』東洋哲学研究所・編
第三文明社