鋭く政治を監視している人はいる。
私の個人的信条は
絶対的にいじめを嫌悪することだ。
規制をかければいいというものではない。
もっとのびのびとあるべきだ。
マスコミにしたって
もっと自由でいいと実は思っている。
いじめで苦しむ子ども達への視点さえ失わないならもっと自由でもいい。
いじめに対して甘い社会だったから
今
閉塞感なんて言葉が重く蔓延している。
自分の心の中にあるいじめに対する甘っちょろい認識を
バッサリと切られ
臆して思いきれない人が多いと私は感じている。
しかしこれは、私の恨み節のひとつであり建設的な意見とは言い難い。
徹底的に悪を斬ることをしなければ
悪人をのさばらせることになる。
ズバズバ切らねばならない。
ただ、悪を断ち切ってさて、その後に
なにを築くのかがまた、重要となる。
では、
いじめは1000%悪いと認識はできた。
じゃあその後は?
である。
知恵は溢れる程にあるはずだ。
一流の先人哲人の書物や言葉に知恵が溢れているはずだ。
一流の政治家がいたはずだ。
今世界にも一流の政治家や人間がいるはずだ。
私は
逃げおののいているのではないか
自己保身のくだらない人間に成り下がっているのではないかと
今自分自身に問うている。
では、秀でた一流の人に寄りかかり生きるのか。
また、一流の人が現れるまであくびを噛み締めながら待つだけなのか。
それではいけない。
無名の民衆一人一人が声を発することだ。
政治家に例えていうなら
政治家は我ら民衆の代わりに国会に立っている。
支持団体とかの枠を超えて立っている。
いじめに苦しむ中学生に胸を痛めない政治家がいるだろうか。
私はそこの善性はすべての政治家にあると信じたい。
確かに腐りきった醜悪な政治家がいる。
党略党利のみに汲々とした化け物もいる。
しかし
そんな枠を取っ払ってよくよく、もう一歩深く忍耐強く観察してほしい。
すべて1000人中1000人がそうなのか。
私自身も
気をつけて見ていきたいと思う。
一パートでしかなかった一民衆のローザパークス女史が発した不当差別に対する「NO」
1人の名もなき民衆の声が公民権運動のきっかけになったのは歴史的な厳然とした事実である。