おはようございます。

今朝は
畑のそら豆や、新玉ねぎや、大根や、セロリ、
タケノコもいれた
季節の野菜カレー🍛  

と、ちまきねこたろう🐈






さて。
わたしは
畑で過ごす時間が大好きです。

土の上をはねるカエルの姿、
小さなカニを見つけた時、
野菜の芽が顔を出した時、
花が咲いた時、
まだまだ青い小さな実がついた時、
よろこびでいっぱいになります。

畑で育つ植物たちも、なにもかも、
みんな自由で
どの子も楽しそうです。

同じように見えて、ひとつも同じところがない野菜の苗たちは、
保育園の園児たちのようで、かわいいのです。

人間も、そんな風に生きたらいいのにな、、て
のびのびしている畑の野菜を見ていて思います。


昔の日本人は
みんな各々のよろこびを大切に
心自由に生きていたそうです。

「めんどうくさい」「もっと便利に」
「しあわせとは、これ!」という
社会の波にのみこまれ

手間暇かける贅沢を、やめちゃって
みんなが同じものを買って持ち、
同じであることを目指し、見張り合い
多様性が無くなりました。

果たして、本当にしあわせになったのか?
自由を得られたのか?


掃除機が贅沢品であった時代
箒ではいたり、雑巾でふいたり、草引きしたり
子供たちも手伝いながら、部屋や庭を
掃除していました。

さらには、
コキアやシュロなどの植物に持ち手をつけて
箒を手作りしたり

着古した着物をツギハギして縫いあわせ
雑巾を作ったりしていました。

身の回りのものは、なんでも家庭で手作りし
暮らしていた昔の日本。

昔といっても100年もたっていません。
つい最近まで、そんな暮らしをしていました。

「暮らしが仕事」だった時代です。
「買う」のではなく「作る」
みんなが、いつも、何かを「生産」していました。

この「生み出すこと」が
人のよろこびや、しあわせに直結しています。

誰かのために手間暇かけて作るとか、育てるとか、修理するとか、、
それを喜んでもらった時の至福は
自他の心を満たします。
 

「みんな、しあわせでいたい」と願っています。
「人に喜んでもらえることが、自分の心を満たします」


例えば
お花ひとつをプレゼントするという行動。
野菜をプレゼントするという行動。

友人が大切に
手間暇かけて育てた花や野菜や料理を
贈り物されるのと、

友人が一生懸命はたらいて
お金を手にして誰かが育てたお花や野菜や
お惣菜を買って贈り物されるのと、

どちらも、同じくらい
有難いことなのですが

「お金を介することで、価値が見えにくくなっている」ように感じます。

「価値が見えにくい」ということは
「有り難みを感じにくい」

つまり
「よろこびを分かち合いにくい」
ことになり

「しあわせを感じにくい」のかもしれません。

だから
「物を買っても、物をたくさん持っても
しあわせになれない…」「ミニマム」という投稿が最近は増えているのでしょう。


お金を稼ぎ、物は買うもの、、という
偏ってしまった社会は
しあわせを感じにくいと気づき

手間暇かける姿が目の前で見える暮らしは
自他の心を穏やかに満たすんだ、、と

また、ぬくもりを感じる
多様性をよろこぶ暮らしが
広がってきそうですね。

すこやかな一日を。