おはようございます。

畑やお庭畑の野菜たっぷり朝ごはん☺️







さて…
昨日、実家の母が
家の近くの桜を観に行って
「桜が咲くと、なぜ、みんな桜を観に行くのかな?」と、Instagramに投稿していました。

そんな私も昨夜
毎年楽しみにしている
姫路城の夜桜を家族で観に行きました。


桜の名前の由来をご存知ですか?

古語では『さ』は耕作を意味します。
『さ』とは山の神。春になると里に降りてきて田の神様になられます。
『くら』は神様が鎮座する「台座」のこと。

つまり、桜は『田んぼの神が宿る木』 が由来だそうです。

日本人にとって
大切で特別な木であることは間違いありませんね🌸



私が桜を観て感動して泣きそうになるのは
儚いからです。

私は、儚いものが愛おしくてたまりません。

春になり
今か今かと待ち望み
ようやく満開になったと思いきや
雨風が強ければ、次の日にはすっかり散ってしまう桜🌸

「明日、どうなるかわからない」
それは桜の花だけでなくて
私たちの命も同じです。

命の儚さに
みんな本当は無意識下で
気づいているでしょうね。
だから桜に心を魅了されるんでしょう。

桜は、わたしたちの命の儚さの鏡になっているように思います。


私は桜を観る時に
ただ、ただ、綺麗だなぁ〜…と
ぼんやり眺めることが、どうしてもできなくて、、

「これが最後かもしれない」と思いながら
毎年、観ています。

「最後の桜かも」

そんな風に観てみると
いつも以上に桜は煌びやかに美しくやさしく
佇んでいるように感じます。


「今日が最後かも」
「これが最後かも」
そんな風に、時事刻々、そう思えたら
今日も明日も明後日も、
毎日すべてが、輝いて見え始めます。
どんな景色も出来事も、愛おしく感じるようになります。

いつまでもある…いつまでも続く…と
終わりあることを意識せずとも
生きられるほどの平和の中にいるから
有り難さが霞んでしまい
しあわせを見失うんでしょうね。

でも本当は毎日

これが最後の仕事かも。
これが最後の「おはよう」かも。
これが最後のハグかも。
これが最後の「ありがとう」かも。
これが最後の食事かも。
これが最後の「いってらっしゃい」かも。

なにもかも、今日で、最後かも。。。が
真実です。


わたしの頭の中には
それが染み込んでいて
すべての言動の選択のベースが、
「これが最後かも」です。

だから、目の前に広がる
その人との時間も、その空間も、
なにもかもが、二度とないかもしれない奇跡で、一瞬一瞬どうしようもなく大切で
かげかえないものなんです。

明日には、
誰もが白骨の身となっているかもしれません。



もし、
また来年行こう!
また明日しよう!
いつか、しよう!

そう思ってしまうのなら
日々の感動は
少しばかり色褪せて見えていますよ。


どんなに厳しい環境でも、
どんな時も
心腐らずに
「今日が最後かも。」と
懸命に生きている姿は
とても美しいものです。

だからきっと人は、
桜に魅了されてしまう。


「散る桜 残る桜も 散る桜 」

「明日ありと思う心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは」


今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。そのことを心得て

明日があると思い込んでいる気持ちは
いつ散るかもしれない儚い桜のよう。

夜に嵐が吹こうものなら
もう見ることはできません。

わたしたちの人生も
桜のようだと思いませんか?

芽吹く姿、まあるく咲き誇る姿、
ひらひらと散る姿、
次の世代に譲る姿、
土にかえる姿。

どれも美しい。どれも、わたしたち。

すこやかな一日を。