おはようございます。



毎日、早寝早起き。

毎日、草抜きすること。

毎日、花を育てること。

毎日、朝ごはんをゆっくり頂くこと。

毎日、部屋を掃き掃除し、拭き掃除すること。

毎日、文章を紡ぐこと。

毎日、座禅を10分すること。

毎日、お坊さんの書いた本を読むこと。

毎日、ストレッチすること。

週に2回、トレーニングすること。


これらは、いつのまにか

私が習慣にすることができたことです。


文章を書くこと以外は

どれも苦痛だったり苦手だったことばかりです。


でも、それが自然にできるようになり

気持ち良いことだとすら感じるようになりました。


なぜ、そのようになったのか。

答えはいたってシンプルです。



「頭を悩ます、いっさいの気がかりを、すべて手放していった」


例えば、

いつか勉強しよう!練習しようと思って買っておいた参考書や楽器を取り除けば、自分へのプレッシャーから解放され、気がかりが減りました。


例えば、

問題解決をせず、話をしたいだけの愚痴をこぼす友人や、私がイライラすることを何度も口にする友人の傍から放れ、ゴミ箱のようにされている不快感から解放されることで気がかりは減りました。


例えば、

高かったから、使っていないけれど、なんだか元を取りたい!という謎の思考をやめにして、物に捉われることから解放されることで、気がかりは減りました。


例えば、

sns。朝の自分の投稿以外は、

なにかのついでに一日2.3度、数分ほどしか見ないようにすることで、リアルにお会いする縁を大切にする時間が増え、snsで「見てくれましたか?」「返信してほしい」「メッセージ読んでほしい」と数多く送られてきていたsnsの煩わしさから解放され、気がかりは減りました。




こんな風に、

「気になって自分に集中できない」「周りに振り回されてしまう」「不快な気持ちになりやすい」と感じる、物や人や用事を、どんどん減らしていきました。


まずは今までの半分以下、、今は2割以下にすることで、気が散らなくなり毎日が充実し始めました。


すると自ずと自分自身が整いはじめ

苦手だったことが、気持ちの良いことだと感じる余裕が生まれ、それらは「本当はしたいことだった」と気づかされ、自然に習慣化していきました。


「物理的な余白」というものが

「心の余白と充足」に繋がることを感じています。




また体力的にも、精神的にも「老い」により

余白を増やさざる得ないと感じたりもします。


若い頃に獲得してきたものを「老」と共にどんどん失っていく。それは逃れようのない「自然」です。


思い込みで「埋まっていた部分」が

「老」によって抜け落ちて余白になり、その余白こそが仏教の説く「空」にも重なります。


日本文化は、老「成」し、老「熟」してこそ完成するものと前提されています。

究極は「枯れてきましたね」などと讃美されたりもします。


日本人にとっての美とは、おそらく自然に従う感覚と共に自覚されます。

大切なのは、余白に「美」を見いだす感性。


なんでも手に入る大富豪たちが最後に欲しがるものは

「なにもない空間」だそうで、

日本の「禅の庭」の美しさに

「なんて心が落ちつくのだ‼︎」と魅了されるそうですよ。


余白の美を育む、自然に目を向けて楽しんでいたいです。

すこやかな一日を。