おはようございます。


お魚にすると、ねこたろうの

「ちょうだい」

「うんう、おっきい方!」の視線が楽しい朝です。








さて

昨日、実家の母とこんな話をしました。

「若い頃は、いろんな物が欲しいと思うけれど、

物は本当にいらなくなるねぇ。持って死ねないしね。」

「ご飯が食べられて、眠れるだけで、幸せねぇ」と。


そんな母の部屋も整理され、物が少ないのです。

私も、母と全く同じ考えです。



そのため40代ではありますが、私の日々の行動は、世間でいう終活も含まれているようです。



ですが寺にいると

老化や病気や死というものは日常であり

年齢など関係ないのだと感じます。

「決して私の死の身支度は早すぎるものではない」と感じています。



残された大切な人が争わないように、、、

残された大切な人が片付けや整理で大変な思いをしないように、、、

なにより自分の始末を自分でする気持ち良さ。

自然と身の回りの手入れするようになりました。



身一つで生まれ、身一つで死ぬんだと体感すると

多くを持つことが重荷と感じ

身軽でいるほど、大切なことが浮き彫りになるので

生きやすくなります。



母方の父(お坊さん)と、父方の祖母もまた、

必要な物しか持たず、人に良くし、人につくし、

動植物と共に慎ましく生きる人でした。


自分の死装束を用意して

身の回りを整理して亡くなりました。

穏やかで、笑顔の印象の、まあるいと感じる人たちでした。


だから私は

「まあるいおばあちゃん」と呼んでいました。

祖母も祖父の顔も、私には「まあるく」見えていました。

でも、写真を見ると、どちらも面長な顔立ちでしたけれど。




そんな二人の話を母としている時に、ふと思いました。

「自分の葬儀には、

自分がお庭で育てた、自然のお花をいっぱいにした中で眠りたい」


葬儀のために育てられた人工的な花でなく

毎年生まれてくる雑草と呼ばれる多年草や、ハーブ、素朴な花に包まれていたら幸せだなぁと。

秋なら落ち葉と木の実にくるまれ、冬なら庭の花で作っておいたドライフラワーかな。



誰もが、なあんにも持って死ねません。

自分の老、病、死、

大切な人の老、病、死を本気で考えた時に、

自分はどう生きるかという「生」が見えてきます。


死ぬことを考えることはマイナスなことではありません。不幸なことでもありません。

生きることを考えることと同等です。


「生まれたから死ぬ」

花が芽吹き、咲き、枯れることと同じです。


すこやかな一日を。