けんたろういちご 株分けした二郎がしおれた(泣)
去年スーパーでけんたろういちごの苗を2株買って地植えで越冬させた。
アライグマやカタツムリと闘いながら小さないちごを数粒収穫しただけで、今年は株分けに徹し、来年本格的に収穫できればいいなと。
ド素人なので色々検索したけどさっぱりわからない。
太郎株は親の病気を受け継ぐから、太郎は捨てて二郎株以降を残しなさいとか、親から出る最初のランナーは捨てて2番手以降のランナーを残しなさいとか、言うことが違うんだよ。
親から5本のランナーが出たら、それは皆太郎というわけではないの?
いつまでも親と繋がってたら親株が弱るから、根が付いたら切り離しなさいとか、二郎一人で三郎四郎を育てるのは負担が大きいから、三郎四郎が大きくなるまで親と繋げておけとか、これも言うことが違う。
ただ、畑の片隅を借りての地植えなので次々出るランナーを受ける土地がなくて、次々独立してもらわなくてはならない事情があるわけよ。




何が正解かわからない。
何なら元気モリモリの太郎を残したいくらいだよ。
病気を受け継ぐって、病気前提なのか?
残してみて来年ダメだったらダメでいいわけだし。
原爆資料館の選択展示
最近議論されている問題。
カパエルは広島には行ったことはないけど(北海道なので飛行機を使わない当時の修学旅行は関西止まり)、中学校の図書館で原爆写真集を見たことがあって。
むごたらしく痛々しく凄惨そのものの写真集。
焼け野原、熱風で壁に焼きついた人型、黒焦げ死体、酷い火傷…
特に今でも脳裏に焼き付いてるのは、顔がドロドロに溶けて穴(口)とその近くに突起(鼻)があるから顔とわかる患者の写真。
そう。死体ではなく治療を受けている患者。
おそらくその人は間もなく死んだとは思うけど、どれほど痛くて辛かったろうか。
正直ショックだったし、説明が難しいんだけど、その写真集そのものに被害者の痛み、辛さ、恨みが染み付いてるように感じ、生半可な気持ちで触った自分が呪われるような恐怖さえ感じた。
生半可とは、怖いもの見たさ、肝試し気分でという感じかな。
それ以降大人になっても、今でも、原爆の日や原爆を取り上げた番組等とセットで脳裏に浮かぶのはあのドロドロの辛うじて顔と思える写真。
これをPTSDとまでは言わないけど、ずっと心に残る傷だと言うならそうなのかもしれない。
だから子供には見せるなというのが制限推進派の考えなんだろうね。
ただ、カパエル個人としては見たことを後悔してはいない。
結果としてどうせいつか見ることになるなら、大人になってからでもいいじゃないかとも思わない。
あの写真集を見ていたからこそ、写真以外の体験者の絵や口承でも現実味が強まる。
何万人死にましたとか、数字だけでも被害の大きさは伝わるけど、数字に置き換えられたものと実際に映像として見るものとは全く違う。
そこには数字ではなくひとりひとりの痛みやむごたらしさや潰えた命、潰えようとする命があり、それが先述の呪われるような恐怖と表現したことにつながるんだけど、痛みや辛さが伝播してくるような恐怖と表現した方が近いかな、その写真集そのものが魂を持ち叫んでいるような、数字だけでは絶対に感じられない現実味がそこにはあった。
現代で一番むごたらしい大量殺戮は原爆投下だとも思えた。
それを2回もやられた。
戦争を終わらすために必要だったとかいう主張を論破するつもりはないけど、黙って写真集を送りつければいいと思った。
核兵器を持つ全ての国へ。
核戦争が起きれば、次に写真集に収まるのは自分なんだと実感させるために。
選択制にすれば、一生避けて通る人もいるのではないか。
もちろん理解が及ばぬ5歳児に見せろとは思わないけど、中高生になっても大人になっても避けることができる環境はいかがなものか。
被爆者の高齢化で本人からの口承の機会はやがてなくなる。
資料でしか拾えなくなる時代が必ず来るのに、そこに取捨選択があってはならないと思う。
それとはまた別の視点で。
見たくない見せたくないという根底には、気持ち悪いとか怖いとかの不快感を拒否する感情があるわけだよね。
被害者をそのような対象に置くのは二重の仕打ちではないか。
例えば病気や怪我での醜形に不快感を持つ人がいること自体は否定はしないけど、それをあからさまに表出するかって話し。
クラスの皆が気持ち悪がってるからこれからは保健室登校してね、となるかって話し。
極論すぎると言われようが、同じ話し。
違うのは対象が死んでいるか生きているかだけで、前者に対してそれができるのは生きている者の傲りでしかない。
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