歌のレッスン時に、先生が鏡を見るように言う。
「全身、そして顔の筋肉すべてを使って歌います。メヂカラも。」
目の周りの筋肉も、口の筋肉と連動しているので
視線の置き方も大事だと先生は強調する。
忘我の極地で瞳を閉じ、歌そのものと一体化したほうが上手に歌えるかと思いきや
そうではないらしい。
極限まで口を開いて、楽器そのものになり、「音を出している」自分と鏡の中で目が合うと、
吹き出しそうになってきて、「先生!ちょっと!駄目です!」となる。
気恥ずかしくなって当然だ。
起床時と就寝時以外、鏡を見る習慣などない。
ここに来て、誰よりも見慣れているはずの自分の顔が
一番良く分からないという事実を知らされることになる。
「この歌詞にある情念のようなものは、首筋を使ってね。」と先生が先輩を指導していた。
歌うだけなら誰でもできるが、歌を表現することは難しいらしい。
完璧とは言えない自分の歌を聴いていただく努力として
外見をも含めた適切な立ち居振る舞いを用意すること、それも表現力のうちに
含まれるのである。
歌は魅せつつ、聴いていただくもの。
写真は一番良いアングルを探せるが、舞台に立つと全方向からの視線を受けることになり
自然と全身に緊張感が走る。緊張したままだと上手に歌えない。
猛獣使いのように、緊張と弛緩を操作するのだ。
就活や婚活時には、「他人の目」に心地よく映るように化粧の仕方を学び
一番魅力的な自分を描きあげるにわか芸術家になる。
そして当たり前のように外出時には化粧をし、素肌の上に一枚ヴェールをかける。
化粧をしない外出は、下着を着ない外出のようなもの。
つけまつげ、アイシャドゥ、アイラインと盛れば、ヴェールどころか仮面になり
その仮面もTPOに合わせて七変化する。
舞台化粧と面接のそれとは明らかに違うし、目線の落とし方も違う。
ブレスに翻弄されている上にこれ。前途多難であるが
聴いていただく努力なくして歌は歌えない。大切な時間を割いていただいているのだもの。
先生の言うことを素直に聞く、素直な生徒になるべく
私はメヂカラ教材を作成し、化粧品カウンターへ走った。
他人の目に映る自分を知り、自己認識との歪みを是正するのである。
あわよくば他人の目を自己の中に再構築し、360度からの視線に慣れておく。
鏡の中の自分とファインダーに写る自分、
まるで生まれからずっと引き離されていた一卵双生児が
ひょんなことから互いを捜し求めるようなシチュエーションだ。
新しいファンデーションを勧められて買った。この際だからとケースも新調した。
母から譲ってもらった十年物のケースは、たんすの奥にしまった。
でも流行の化粧がどうしても似合わない。盛れば盛るほど似合わない。
あの美しい販売員さんのようには到底なれない。他人と比べたってどうしようもない。
「最後のひと筆は、学芸会の小学生よろしく、<愛嬌>でごまかしちゃえ。」
あれでもない、これでもない、と自己像という手持ちの<仮面>を眺めて
途方に暮れつつも、ここそこに小さな発見を重ねて楽しんでいる自分がいた。
見られていることを忘れていた生活を恋しがるべきか、
それともこれから積極的に自分を見つめていき、自分の中に心地よさを見つけるか。
そのままで存在自体が美しい小鳥たちが羨ましくなった。
私は川のせせらぎにでもなりたいと思った。