近所のバス停から私営のバスに乗って、駅に向かうも、

料金を支払う小銭を探す間の、私への運転手さんの露骨にイライラした態度に衝撃を受けた。

「えっ?マジで?」

私の頭の中で色々な思いがうごめく。

何か言ってやりたい衝動に駆られ、小声で

「あれ、何かイライラしてます?」と聞いてみたが、完全無視。




座席に座り、今感じてる事にドキドキして、どうしてやろうか(単純にこらしめたいという恐ろしい感情で)営業所に電話して文句言おうか、携帯からネットでホームページを探し開いてみる。

開いても意識はそこに無く、ムカつく運転手さんの事しか頭にない。



まぁね、彼もまだ若そうだし、色々ムカつく事もあるんだろうし、それを態度に出せる未熟さに、関係のない私がイライラしてもね、と思考で治めようとしているいつもの癖に気付き、このムカつきをただ感じる事に努めた。



相手にムカついているけど、これ多分違う。

それはキッカケに過ぎない。

相手は私の記憶を刺激しただけ。

彼は、私に私の記憶を見せただけ。




バス会社のホームページを閉じて、そのドラマに意識を置くことや考え続ける事を兎に角止めた。




切り替えて、目的地に向かう。


その後は、楽しく時間が過ぎた。





バスのひとときの件を改めて客観的に眺めると、私は人のイライラを自分の中に取り込んで、勝手に人を責めていた。




私はイライラされる事が嫌なんだな。

相手にイライラさせているだろう自分をどこかで責めてもいる。

そして私も人にイライラする事があって、そんな自分を罰しているんだろうな。

無視されたり、居ないような態度を取られる事も嫌なんだな。

自分の存在を無意識に人の動向で判断しているところがあるんだな。

人の存在を、私に対する動向で判断しているところがあるんだな。




相手がイライラしているならイライラさせたままでいい。

私が何とかしようとしなくていい。

何とか出来ない自分にガッカリしなくていい。

相手をイライラさせたのは私だと思う自分を責めなくていい。




接する相手には、やっぱり機嫌よくいて貰いたいけど、それは相手の自由なんだよね。

接客業であれ、そりゃ理想はあるけど、それもその相手の課題であり自由だ。




私はわたしの機嫌を大事にしてあげたい。

それには、どんな相手と接しようとも、私の心は平安に保つ事。




普段私も接客業をしている身。

こうでなければいけない、を自分にも相手にも以前は握っていたけれど、いや、今も全くない事はないけど、気をつけたい。




何を気をつけるかと言うと、相手の機嫌は私とは関係ないという事。

お客さんも色んな気分でお店に来られる。

その相手の機嫌や気分を勝手に取り込まず、

私は相手の機嫌に関係なく、常に自分をご機嫌に居させてあげられるように。

相手の反応を自分のせいにしない。

人の反応は放っておく。

私は私の機嫌だけをとる。




これからチョイチョイ夏休みに入り、接客の機会も少ないけれど、この事は仕事だけの事じゃなく、旅行した先、お店の人、いや目の前の家族にも言える事なんだよね。




私の反応に気をつけながら、相手を責める事なく、まぁ責めたかったら責めるだろけど、そうすると自分が苦しくなるから、やっぱりね、何か反応が起きた時は常にチャンス&チャレンジなので、反応のチャンスを期待して、その時その時を楽しみたい。