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旅行で行った場所、お城や建物、歴史等を紹介してます!


本能寺の変を起こした光秀。実は性格は温厚だと言われてます。光秀は福知山城を築城しますが、石垣にはなんと墓石が使われてます。これは用材が調達出来なかった時、領民に持って来させたとか。
なぜそんな事が出来たのか、それは度重なる洪水から守る為竹を植えて堤防を造る等、領民の為に尽くしました。今でもその竹やぶは明智藪と言われているそうです。
そういった事から領民からも、信長からもその心意気を買われ慕われたと思います。
しかしながら結果的に本能寺の変になってしまいました。
明智光秀の肖像画からもその人柄が出ているような気がします。肖像画の上部には出家して僧侶になったと書いていて、もしかすると生きていた可能性もあります。それに農民が槍で討ち取ったとする説も無理があるという説があります。最近、聖徳太子の肖像画が別人という話があり、もしかすると光秀の肖像画も違うという可能性もあります。はっきりした証拠がない為。

本能寺の変についていろいろ諸説ありますが、某有名番組でその謎が少しずつ解明されつつあるようです。宣教師ルイス・フロイスによれば、信長と口論になった際に信長が光秀に3回足蹴したと、決定的な事が書いてあります。
それが引き金となって本能寺の変に繋がったとする説が今の説です。
信長の目的は敵でもある三好氏と手を組み、毛利氏を倒す事。
その時長宗我部氏は四国制覇し、三好氏を倒そうとしていた矢先信長が手のひらを返し、三好氏と手を組んだ為光秀は長宗我部氏を説得、
長宗我部氏も光秀に何事も何事も頼むと。
つまり、信長の命ならば何でも従うのでなんとか説得してもらいたいと、ある書状の裏に書いてあるのが最近になって見つかりました。
しかし光秀はころころ変わる信長の性格に嫌気が差していたのかもしれません。
その結果、本能寺の変に繋がったとする説が有力です。
実際に親交のあった公家の近衛前久がねい人ざん訴にて、つまり信長の悪口や良く思ってない人がいるから気をつけた方がいい、というような書状を送っている。
結果的に光秀は本能寺の変を起こし、農民に討ち取られ、長宗我部氏は戸次川の戦いで戦死する散々な結果になってしまった。→続き