4歳で自分がブスだと気付いた私は、容姿に対して既に自己肯定感がかなり低かった。

そして、いじめ・仲間外れを繰り返されることにより、自分自身を否定し、内面の自己肯定感も高校生の頃にもなれば底を尽きていた。


周りが悪いかと言われるとそうは思っていない。

周りは周りで社会的な順応力に欠けている私に対して思うことがあり、距離を取ったり、ときに否定をすることを必要としただけなのだろう。


まぁ、だからと言って傷付けられたことは一生許すつもりはないが。特に見て見ぬふりをしていた先生は絶対許さん。


…話が逸れてしまった。


そうして自己肯定感の低い私は、自分を少しでも肯定してくれる人に依存するようになった。今でこそあれが底辺だったなと思うのは「人としては嫌いだけど、いろいろくれるから物としては好き」の発言を喜んでいたことだ。それだけ、少しでも必要とされたことが嬉しく思う程度には人間として堕ちていたんだと思う。

そうして人に依存することで生きてきた私が最も依存していたのは、専門学生時代の「彼氏」だ。

それまでにも「彼氏」なるものはいたが、初めて明確に好きだと言うことを伝えてくれたのがこの時の彼氏だった。


当時私も彼も1人暮らしをしていたため、半同棲状態になるまで時間はかからなかった。

彼は毎朝、そして帰りに学校への送り迎え(まぁ自分も同じ学校だったからそのついで)をしてくれ、夜は彼の友人含め遊びに出かけ、夜は共に寝ることが多かった。しかし彼は束縛が激しく、喧嘩も多かったのだが、私はそれを"愛されている"と勘違いして、余計に彼の言うこと聞くようになってしまったのだ。今考えると、手のひらで転がしやすいいい鴨だったんだろうなと思う。彼の浮気も知っていた。何度も別れたり付き合ったりを繰り返した。最終的には付き合ってないし、他に女がいることも知っていながら身体を許していた。全部彼に依存していて、彼無しでは生きられなくなっていたからだった。


そんなある日。小さな命が宿った。


私の身体に。


もちろん彼は堕ろすように言った。

彼の両親は、自分の息子は何も悪くない。

そもそも息子の子供かもわからない。

堕ろして二度と関わらないでくれと、言うだけ言って帰って行った。私が彼の両親に責められている間、彼はずっと下を向いているだけだった。


彼の両親の態度を見て、私の両親が私に選択させたのは2択だった。


自分の子供として産んで「母親」になるか


両親の子供として産んで「姉」になるか


恐らく私の生きてきた中で最大の選択だったが、

迷いはなかった。


私は「母親」になった。


それから私は人に依存することが無くなった。

強いて言うなら、自分の子供が可愛くて、他に目を向けることがなくなってきたのだ。

まぁ子供に依存していると言ったらそれまでなのだが。

意外と何かに依存することが無くなってしまえば世界は広いもので。そこから私は小説を書くことを始めてみたり、前に記事で書いたコスプレを始めてみたり、それに加えて裁縫を始めてみたり、と色々と趣味の範囲が広がっていき、友人や知り合いも増えた。


家族も増えた。


旦那になってくれる人が現れたのだ。


今の旦那は連絡をこまめにする人ではなかったし、愛情表現もそんなにしてくれないし、ついでにいうとそんなに会える人ではなかったし(社会人だしな)、完全に私のタイプではなかったし、依存するには心許ない人だった。

けれど、私と子供の生活を優先してくれて、自分と子供の時間を作ってくれて、子供の手を握ってくれて、自分の家族に会って家族になって欲しいと言ってくれた。


依存なんかより、純粋にそんな彼に惹かれた。

多分、これが本当の恋や愛情というものなんだろうな、と思った。


依存というものは厄介だ。

だが、特に私のような自己肯定感が低い人程、一時の安心や快楽のために何かに依存しやすい。

けれどそういうものに未来があることは少ないし、それに気付いたところで抜け出せない。

私がそうだったからよくわかる。


しかし、今の若い世代は、家と学校の往復だけだった私と違い、外の空間に触れることは多いと思う。

アプリを開けば沢山の人が動画を上げていて、アプリを開けば誰かが呟いていて。

自分の趣味を共有してくれる人がかなり増えてきたなと思う。だから、自分が大切にしたいことはなにか、自分が本当に楽しいと思えることはなにか、もう一度考えて、世の中に発信してみてはどうだろうか?


初めは恐らく食いつく人は少ないし、時には傷付けようと狭い心を持った悲しい人も出てくる。しかし世界は本当に広いもので、何かしら共通した趣味を持つ人は意外と多いものだ。どんどん共感してくれる人に出会えるようになってくるし、貴方を肯定してくれる人も沢山でてくる。

そうして視野を広げていくことで、自分にプラスな世界を作り上げてはいけないだろうか。

だって貴方の世界を楽しめるのは貴方だけなのだから。


私はこの言葉を自分にも届けたい。

子供のためにも必死に生きていかねばならないのだから。


社会人となって「報連相」は求められることが多いし、第1に教えられるものと言っても過言でなければ、私も必要なものだと理解している。

そして「報連相」を行う中で「結論から先に言うこと」を大事にしている人も多いのではないだろうか。


私はこの「結論から先に言うこと」ができない。


何故かは分かっている。

小学2年生の時の担任が「自分がどうしてそうしたいのか、先に述べてから結論を言いなさい」と言ったから。例えば「私はこう思う」とは言わず、「私はこのような考えがあるからこう思う」と述べるように、と教えられたのだ。(先生ごめんなさい。)

それが"ルール"として染み付いてしまった私は、未だに「結論から先に言う」という"ルール"に起動変更できずにいるのだ。


このように小さいころにルール化されてしまったことを、未だに修正できないことを私は「言葉の呪縛」と呼んでいる。


他にもある。


私の家庭は典型的な亭主関白で、大黒柱の父の言うことは絶対で、家族は誰も逆らうことができなかった。

もちろん良い行いをしたり、良い事があれば褒めてくれたり、一緒に喜んでくれる普通に良い父親だ。しかし悪い事をしたり、父のルールに逆らうと、拳骨はとんでくるわ、暗い玄関で正座して反省させられるわ。

特に「空気が読めない私」なんかは、父の怒りスイッチがわからないために、簡単にそれを押してしまい、よく怒られていた。

そこで、怒られないようにするために私が守り続けたのが「父が明確化したルールには必ず従うこと」だ。


そして社会人となった今、父から言われた言葉が全て正しいわけではないとわかっていても、脳裏に焼き付いて離れないことがある。例えば、1度親元を離れたことがあった。仕事も生活も上手くいっていたが、帰省した際に「戻ってくることが前提の話」をされた。それが脳裏に焼き付き、地元に戻ってきたが、結果仕事も生活も上手くいかず、戻ってきたことを今でも後悔している。最終的には自分で決めて帰ってきたのだから、決して父のせいにするつもりはないが、私の中ではこれも「言葉の呪縛」だ。


「空気の読めない子供」でも伝えた通り、発達に遅れがあっても、遅れがあるだけで成長しないわけではない。未だに「言葉の呪縛」に囚われた口頭での受け答えは本当に苦手だ。

しかし、最近よく使用されるメッセンジャーは便利だ。1度好きなだけ文章を打った後、結論から言えているか、この文で相手に伝わるか、確認することができる。今はここから、相手に伝える練習をし、いつかは口頭でも結論から伝えられるようなりたい。


また、今は幸い自分の家庭を持つことができており、父と離れた暮らしをしている。父の言うことばかりを鵜呑みにして行動すること、ができない環境を作ることができたのだ。


こうして少しずつ幼少期の偏ったルールを、今の社会に適応したルールに変更していけたらよいなと努力しながら、私は今を必死に生きている。

幼児や小学生でも成長に伴って「空気を読む」ことができるようになってくるものだ。

みんなが静かにしているから静かにする。

みんなが踊っているから踊る。

みんながわいわい集まるからその輪に入ってみる。


恐らくそれができなかったのが私で、

その頃から"アスペルガー症候群"と思われる症候は出ていた。

それが著明に見られ始めたのは小学3年生の頃に入ったバレーボールクラブだ。

ボールに触れる前にアップを行うことが多いのだが、その順番が"暗黙のルール"で高学年からの学年順になっていた。


大事なのは、この"暗黙のルール"というものが私のような人間には厄介なもので、言われたら理解できるのだが、言われないと理解できないのである。


そこで当時の私がやらかしていたのは「学年順など無視して、自分のやりたいタイミングでアップを行う」ということだ。周りからするとなんとも迷惑な行為だ。しかし、そんな私を誰も止めることはなかった。それが、優しさだったのか、迷惑だが言わなかったのか、影では悪口の題材になっていたのか…恐らく全てだと思われるが、小学3年生の私にはそんなこと、知る由もなければ、知ろうとも思わなかった。


他にも私がやらかしたのは恐らく小学5年生のときだ。

朝、登校すると当時よく話していたグループの子が1人泣いており、それをグループの子が囲んで同じように悲しんでいるようだった。そこで「少しでも空気が変わったら」という思いで、敢えてとても元気な声で「おはよう!どうしたの?」と泣いている子に声を掛けたのだ。すると周りからバッシングが飛んでくる「なんで○○ちゃんがこんなに悲しんでるのにそんなに明るく声を掛けられるの?」「○○ちゃん転校するんだよ!?よくそんなに平気でいられるね!」と。

みんなが欲しかった声掛けは"周りに共感して悲しんでいるもの"だったらしいが、当時の私は「なんで私がそんなに言われないといけないの?知らなかったことがそんなに悪いの?」と思っていた。


私の知らないところで、同じような過ちは幾度も繰り替えされていたんだろう。いつの間にか私は"空気の読めない子"として、仲間外れの対象になったり、1人で過ごす方が楽だと感じるようになったり、「影で悪口言われてるよ」とわざわざ教えられることも多くなった。


更に中学時代は酷かった。

私は吹奏楽部に入った。上下関係がとても激しく、後輩は先輩に頭が上がらずずっとペコペコしていた。これは"暗黙のルール"ではなく、教えてもらったから私にもできた。が、敬い方が足りなかったんだと思う。


ある日合奏があり、音楽室に全部員が集まっていた。

合奏が始まったとき、私は楽譜に書き込む為の鉛筆を忘れてしまったことに気付いた。隣にいた同じ学年の友人も流石に予備は持っておらず、あろう事かその時の私は反対隣に座っていた先輩が持っていた予備の鉛筆を借りてしまったのだ。

合奏が終わり、貸してくれた先輩は快く借りた鉛筆を受け取ってくれたのだが、周りの先輩や同学年の子たちがそれをよしとせず、しばらく「先輩からものを借りる無礼なやつ」と仲間外れにされた。恐らく仲間外れにするために都合のよい"きっかけ"に過ぎなかったのだろうが。


そのような"暗黙のルール"に対応できなかった私は、周りと小さな衝突を繰り返すことが多く、ただ、小学生の頃より"自分の意思"もしっかりとしてきているため、なぜ伝わらないのか、自分の何がおかしいのか、がわからず、歯がゆくなって自傷を始めた。


私のような人間がなぜ特別支援教室に入らなかったか。それは、明確なルールには従えたからである。


楽器の音色の善し悪しは分からなかったが、楽譜に沿って音を出すことはできた。そこで音を出せば正解だと楽譜に書いてあるからだ。

部活動は最後まで続けたし、毎日ちゃんと顔を出した。父が自分でやると決めたら最後でやれというルールを口にしたし、毎日しっかり顔を出しましょうと言われたからだ。辞めなければ、顔を出せば正解だと教えてもらったからだ。


頭は決して良いとは言えなかったが、理科や算数はよく100点を取っていた。国語のように"相手の気持ちを汲み取ってそこから正解を導き出す"のではなく、既に決まった答えや決まった公式に沿って問題を解くだけだったからだ。


空気が読めないことで周りと馴染めない人が周りにいませんか?まずはその人にちゃんと"暗黙のルール"を教えてみてください。結構改善されます。ほんと。驚くくらい。だってその人は知らないだけで、悪気は無いんですから。


あるいは自分がそうでないですか?

これと言った正解はないのですが、私なりに今をいきる中で工夫していることがあります。

それは


周りは周り、自分は自分


と思うこと。意味がわかりませんね。

でも私にはこれしかなかったんです。

周りはルールなんて教えてくれないし、なにもしてないつもりでも相手は勝手に傷付いて周りはその子を庇うし、いつも1人でいても周りに笑われるし。


でも自分だけ周りと違うのは、周りより少し成長が遅いだけ。貴方は1年前の貴方よりは成長してるところが必ずあるから。


振り返ってみましょう。3年生のときに学年順を無視していた私は4年生のとき、誰にも教えて貰わなくても、学年順を守ってアップができてました。少し、成長してますよね?

大人になってから、周りとの衝突が少なくなりました。ちょっぴり空気が読めるようになったんです。あと、やっぱり周りがもっと大人になって理解してくれるからです。

大人になるまで長いし、今が辛いのはわかる。私がそうだったから。でもそれは貴方のせいではない。から、どうか今この時だけで不幸と判断せず、小さな自分の成長を自分で見つけて、自分だけはその成長を大事にしてみてください。


それを理解して、一緒に成長を見守ってくれる人が少しでも多い世の中になりますように。