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銀鮭日記

ようこそお越しくださいました。ずいぶんとほったらかしでしたが、ちょこっとVIXX愛などをネタに再開してみようかと思います。

パワーストーンが未だ、今の様にスピリチュアルグッズとしてのポピュラーな認知度がなかった頃、デパートの物産展的な催し物の会場の一角で、私はひとつの石に出会いました。

今から20年と少し前の事です。

当時は確かパワーストーンという総称も定着はしておらず、天然石という括りで、翡翠やアメジスト等と並べて販売されているコーナーでの出会いだった記憶があります。


私が出会ったのは、直径3センチ程の瑠璃玉、すなわちラピスラズリです。


惑星を思わせるその球体に、私の目は釘付けになりました。
デパートでの出品ですから、決してお安いはずもなく(笑)、一度はその場を離れましたが、やはり諦め切れずに、カードの分割払いで購入しました。


今でも時々、思い出しては手のひらに乗せて眺めますが、何時まで経っても見飽きる事がありません。これからもずっと大切に持っていたい石です。


所で、パワーストーンというと、不思議だなあ と思う事があります。


元々私がカタヅケラレネーゼな人なのも要因でだろうと思うのですが、気に入ってそこそこ長らく、毎日のように身につけている石でも、気付くと行方不明になっている事がしばしはなんです。


でも、何かの拍子に、なんやキミ、ここに居ったんかいな 的にひょっこり現れるんですよね。


そういえばアレは何処にしまってたかなあ と捜索意欲を持っても、見つからない時は見つからないし。かと思えば忘れた頃にひょっこり現れたり。


私にとってパワーストーンは、所謂願掛け的な側面よりも、見て触って癒しを感じるもの っていう部分で、毎日の生活に不可欠な存在と言えるかも。
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昼間、和風総本家という番組を見てました。


世界各国で使われているメイドインジャパンをクイズ形式で紹介する番組なんですが、今回紹介された中に、ビーズがありまして。


ビーズ手芸をした事がある人なら、多分誰でも知っているだろう、TOHO というブランド。


アメリカのビーズ作家さん達がその品質を絶賛していた日本のビーズは、粒の形や大きさが揃っているのがスゴイのだそう。


職人さんの経験からくる勘に依る所が多くその製造過程にある事を、私はこの番組で初めて知りました。


回答出演者の方々も皆、全部機械で作られていると思っていた と口にしていましたが、私も同じくそう思っていました。

一時期、スワロフスキーのビーズを使ったアクセサリー作りにはまって、今よりは収入に余裕があった事もあり、ビーズ購入にお金を使ったのですが、老眼の症状が顕著になって、ビーズに糸を通す事が次第にストレスになってしまって、今ではすっかり宝の持ち腐れにしてしまっています。


でも今日番組を見ていて、押し入れに仕舞いこんでいる綺羅達を引っ張り出して眺めてみたくなりました。


最近、毎日のように何か作りたい! という衝動に駆られるのですが、仕事を終えて帰ってくると、その気力がアッサリ削がれてしまいます。

日曜日も同じく、土曜の夜までは創作意欲満々なのに、蓋を開けると午前中に洗濯、短い昼寝してピグやって、テレビ見てる内に気付くと夕方 なパターンが多くて…。


週に1日の休みは、いつもあっという間に終わってしまうのです。


でも、大好きな、カラフルなビーズを見たら、手を動かさずにいられなくなるかもだから、今からでも押し入れ整理にチャレンジしてみようかな!
言葉は、人の思いを伝えるために大切で、最も効果的なツール。

それを「言の葉」と称した大和人のセンスを、私は凄いな~と思わずにいられない。

漢字を組み合わせて作られる熟語にも、元々の中国漢字とは違う発展を遂げた、ことに景色を読み込む趣という独自性の強い特徴があるけれど、そこも私が日本語に感じる大きな魅力でもあり。


外国語の成り立ちについての知識はないけれど、言語そのものに、可視化できる葉という物体のようなものを組み合わせて名称がつけられたのって、他にも存在するのかなあ。


私が何故、葉 という、自然の中に人よりもずっと長く存在してきたものを用いた事に敬服してしまうのかというと、葉 という物質が、その生命体としてのサイクルには一連性を持ちながら、過程や途中経過のあり様に多様性があるからに他ならない。



葉 は、植物が生きていくために不可欠な光合成を行う為に欠かすことの出来ない物質だけれど、そこには種からの成長の図式がある。


種が発芽して、双葉の時期を経て、半年や1年というような短いサイクルでその役目をまっとうするものもあれば、樹齢数百年という、人の命の長さを遥かに超えて生きる樹木の存在を支えとなるものもあって。


そんな中で、私にとっての言の葉の葉のイメージは、ごくごく一般的な落葉樹の葉。


幹から伸びた枝に、新緑としてデビューし、光合成という役目を担って成長し、成熟の時を経て鮮やかな赤や黄色に姿を変えて、やがて老いて静かに、落葉という形で幹から離れ、腐葉土として次の世代の養分になって・・・という、ある意味人の一生にも似た、葉という物質。


生まれて間もない双葉から、両親や周囲の人々の愛情という光を沢山与えてもらって、あれやこれやの体験という光合成をしながら、細いながらも幹として育ち、枝葉をその身につけて。


私という樹の枝に、言葉という私の分身が在る。

言葉は私が発した瞬間に、その枝を離れ、私の言葉として人に認識されるものになる。

きちんと成熟し、綺麗に色づいた葉には、もしかすると人を感動させられる力が備わっているかもしれないし、逆に毒舌ともいうべき言葉は、誰から見ても醜いわくら葉なのかもしれない。


全ての葉は、私の元を離れて、時には遠く、例えば今みたいにネットという風に乗って、行った事もない土地に住む人の所に届いたりもするんだと考えると、色々考えちゃうよね。


降り積もった私の言の葉も、どこかで誰かの養分になってくれるといいなあ。