今日、白い菊を手向けてきました。

黙祷をしました。

3.11 東日本大震災

色々な意味で、ターニングポイントとなった日です。

私は、たまたま三ヶ所の避難所の運営に携わりました。

その思い出を少しずつ、記録しておきたいと思います。


①福島某所 元職場が避難所に

2011年3月11日 福島の元職場が避難所になりました。

元から、避難所だったわけではありません。 

高台にあったために、ひとが集まり、結果として、避難所になりました。

電気は、自家発電が使えましたが、ガスは使えなくなりました。ポンプがダメになり、水道も使えなくなりました。トイレの水は、近くの池からくんで代替えしました。まだまだ寒くて、手が悴んだのを覚えています。

避難所ではなかったので、備蓄がありませんでしたが、1日目はスタッフでお米を持ち合いおにぎりを作って凌いで、2日目からは上長がかけあい、備蓄を分けてもらうことになりました。

2日目の夜あたりから、行政区外の避難者が次々と避難してきました。

夜、原発事故が起きたので、それぞれ避難するようにと、行政の車が警告を発しながら市街地を走っていて、ともかく逃げてきた、という方々でした。


原発で働いている方の家族が多く、働き盛りの家族は原発に残っているとのことで、お年寄りと若いお母さんが多かったように思います。


職場の隣りの行政区は、津波で中心地の半分が被災。スタッフの大部分が津波の被害にあい、家族、親戚を探しており、避難所の運営は、独り身や、家族が県外のスタッフで行われてました。


避難者は疲れ切っていて、次々倒れ、スタッフが慣れない介護の手伝いをしながら、避難所運営をすることとなりました。


保健所や薬局は、海辺に多く、医療関係者が不足するなか、特例で一部の薬品を処方箋なしに処方してもらえることになりましたが、残っている薬は少なく、体調不良を我慢していただく日々が続きました。


この避難所では、避難者を守りきれない、と、1週間で避難所は解散し、大きな避難所に統合となりました。


地域に物資がないため、県外から出勤したスタッフはできるだけ、その日やっと通った福島市行きのバスに乗って避難するか、仙台市に避難する方をみつけて同乗させていただいて避難するかを選択するようにいわれました。

私は、たまたま仙台に行く方に同乗させていただいて、後ろ髪ひかれるなか、帰宅しました。


帰宅への道は、泥と堆積物と捨てられた車、歩きながら避難する方々で、いっぱいだったのを覚えています。


帰宅後、連絡がとれなかった母と再会し、安心はしたものの、もっと、何かできないか?という後悔もあり、部屋の片付け、食料の確保をしたのち、ボランティアに登録しました。


そうして、二ヶ所目の避難所運営に参加することになりました。


二ヶ所目の避難所の記録は、また、後ほど。




11年目の3月11日の空。


◆ちょっとユニークで、悲しくて、でも希望にあふれた作品。たくさんの人に読んでいただきたい物語です。


◆想像ラジオの作者、いとうせいこうさんの東日本大震災の聞き書き集。

小説家ならではの、記録と伝え方だと思います。

物語を読む感覚で読めると思います。


◆まずは命を。アイリスオーヤマから、数種類でているシリーズ。このセットは軽くてオススメです。


■基本のアルファ米。お水でも作れます。混ぜご飯系が特にオススメ^_^


■お水で作ったアルファ米が、どうしても食べられないお年寄りやお子さんもいました。甘くて、少しやわらかいこちらとパンもオススメです。