マナの誕生日から始まるオヤジの葛藤(3)
病院に着くなり医師から説明がありました。
『ずっと経過も良く、「来週からは一般病棟に移すからベッド空けて置くように」、と産科スタッフに連絡したところだったのに・・・』
「なんだ?また手術か?」私にはその意味がすぐに飲み込めませんでした。
これまで数々の合併症を乗り越えて、最後の山のMRSAも乗り切って、妻は妻に襲い掛かった全てのリスクを
乗り越えたというのに、3月4日に日付が変わったと同時に、突然心拍が落ちてしまったのでした。
「何度も何度も蘇生処置を行ったのに、全く帰ってきてくれないんです。」
毎日死と直面している救命医が目にうっすらと涙を浮かべながら感情的に私に懸命に説明しました。
医師等が最期を看取るための準備を整えて、1時に到着した私の面会が許されたのは午前3時でした。
私の目の前に映った妻の姿は、すでに医師も全てを尽くし、最終的に私に看取らせるために通常量の10倍の昇圧剤を投与して薬で心臓を動かしているだけの妻の姿でした。
自発呼吸に切り替わっていた呼吸は、再び機械による強制呼吸で一定のリズムで吸気と排気が繰り返され、
目を閉じたまま静かに眠る妻の周りは様々な医療機器の音だけが響いていました。
「もうダメなのか?」
「もう一度奇跡起こせよ!」
「死ぬなよ!」
「帰って来い!」
「子供達が待ってるんだよ!」
「退院して、暖かくなったらディズニーランド行こうって言っただろ!」
何を話しかけても、もう日付が変わる前の時みたいに目を開いてくれません。
30分、1時間と時間が経過すると共に、140拍以上あった脈拍は100を切り、80、70、60とゆっくりと落ちていきました。
「先生、もう本当にダメなんですか?」
私の涙ながらの問いに、医師も涙を堪え、隠すように頷きながら後ろに振り返りました。
機械と薬で心臓を動かされてるだけの妻に何を話しても聞こえないであろうことは分かっていたけど、
残された僅かな時間を私は話し続けました。
出産入院の前風邪を引いていたゼロ君の様子や、赤ちゃんのこと、友達のこと、出会ってからの思い出・・・
ずっと話し続けました。
それでも、妻の脈拍も血圧も一定の速度で下がり続け、全くそのペースが乱れることはありませんでした。
脈拍も血圧も0に近づいたころ、私は妻にハッキリ言いました。
「二人の子供達のことは心配しなくていいぞ、オレに任せろ」
そして最期に、私は妻の手を強く握り
「じゃあな、ありがとう。。。」、と言ってお別れのキスをしました。
3月4日午前4時49分妻の心臓は静かに止まり、永遠の眠りにつきました。
私は一緒に最期を看取った義父に頭を下げました。
妻が19歳の時に母親を亡くしています。義父にとって妻は義母が残してくれた大切な唯一の一人娘。
私はその大切な命を失ってしまいました。子供達の大切なママを引き止めることが出来ませんでした。
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最終的な処置を終え、6時過ぎに私は霊安室に通されました。
まだ、僅かながらに体温が残っていました。
再び救命センターの担当医が来て、私に言いました。
「この病院でも過去に例がないくらい奥さん頑張ってこられて、あと少しだったのに残念です。」
「これは強制ではないのですが、出来れば奥さんの病理解剖をして、死因をハッキリさせたいのですがどうでしょう?」というものだった。
この19日間の間に6回もメスを入れて、既にボロボロの妻の体に再び死んでからもメスを入れることは
正直ためらいましたが、私はキチンと妻の戦った全てを知っておかなくてはならないと思い、解剖をお願いしました。
後で知った話ですが、救命センター医師は直感的に医療過誤を視野に入れ、私がいざ訴訟で戦うことになったときに、キチンと情報が残っているように病理解剖を勧めてくれていたのでした。
解剖が終わるのは10時~11時くらいになるということだったので、ゼロ君のことも心配だったし私は一度実家へ帰って身支度を整えようと思いました。
3月4日午前7時、病院から出ると眩しいくらいの青空が広がっていました。
少しひんやりした空気の中にも春が感じられ始めていました。
「この病院に搬送された時は、まだ真冬の寒さだったのに、いつの間にか季節が変わろうとしてるんだなぁ」
悲しいはずなのに、私はなぜか肩の荷が軽くなったような感じがし、大きく深呼吸をして駅に向かいました。
(あれ、今回で終わるつもりだったのですが、まだ話が切れなくなっちゃいました)