「ぶーわー」は近藤久也の個人誌。A4紙を二つ折りにした4頁。
「ふつうというふあん」松岡政則はゲスト作品。松岡の作品には、いつもその強さに圧倒される。それは一読では暴力的とも思えるような強さなのだが、読み込めば繊細な弱さと表裏になっていることがひしひしと伝わってくる。それゆえの作品の強さなのだ。
自分がうすくなって誰だかわからなくなって
ふつうを演じていないと死んでしまうわたしら、
もとの自分には戻れないわたしら、
いいやもうわたしらというな
集団を主語とするな主体とするな
この作品では「意図的に構造的に」作られている”ふつう”であることの”不安”が描かれている。いろいろな世界の他者とは【ズレ】てしまう。「【ズレ】とは躊躇いのことだろうか」とも話者は呟く。”ふつう”はかなしくておそろしいのだ。
「花を売る」近藤久也。むかしは、貨幣を知らなかったひとはものを交換して手に入れた。
交換した 貨幣ではなく
なにかと花を
ものかげでこっそりと恥ずかしげに
花の美しさと、なにか大切なものを
今、花を売ったり、コンビニで水を売ったりするのは、「それは虚業」なのだ。話者は大量に運ばれてきて水を与えられている高価なバラを見ている。そして「ほんとのバラはいまも/知らないひとの知らないなにかと/果てもなく/交換されていくのである虚ろに」と言う。今はお金さえ払えば何でも入手できる時代だが、むかし大切なものとの交換でしか手に入らなかったものは、その人にとっての代替の効かない大切なものになったのだろう。
あとがきのようなところで近藤はAIが書く詩について触れている。AIは命令に応じていくらでも”詩”を書いてくるが(それもほんの10秒ほどで)、それを詩として受け止めることができるのだろうか。近藤は、AIが持ち得ない「詩を書きたいという意志が重要に思える」と述べている。まったく同感である。