メルカリでいろいろ売っている俺だが、買うことも多い。

全45巻ある『ドラえもん』。ショートショートとして優れている、という評価もあるが、正直、短編の方はもう読むことがなくなっていた。

作者の晩期になると、年に一度の映画化を前提とした「大長編ドラえもん」は描かれていたものの、本来の連載である短編は、あまり描かれていなかったように思う。

俺の子どもの頃のイメージでは、『コロコロコミック』などに短編がいくつも載っていたが、あれは再掲だったのだろう。

96年に急逝した藤子・F・不二雄氏。この先も描くつもりだったのだろうが、連載版短編読み切り『ドラえもん』は45巻で終わった。

日常の中で、ふっと終わっていったような印象だ。

だから俺は、あらためて読む必要もないと思っていた。


だが、藤本氏の没後30年。45巻の最後に収録されている最終短編『ガラパ星からきた男』が、「超難解」であり、しかも三回にわたる続き物、中編だと聞いた。

初出は94年。亡くなる2年前であり、最終回を意図していたわけではないはずだが、どこか“最終回の貫禄”を持った作品だという。


猛烈に読みたくなり、メルカリで比較的きれいな初版を購入。読んだ。

確かに、藤本先生得意のタイムパラドックスものではある。

だが今回は、のび太とドラえもんが時間を行き来するという単純な構造ではない。

途中から、まるでメビウスの輪のように時間の往来が絡み合い、さらに宇宙的な広がりも見せる。

「石ころ帽子」や「もしもボックス」の回に見られるような、自己の存在や世界そのものが歪む不気味さも加わる。

しかも、残りページは少ない。

「どうする? どうなる?」とヒヤヒヤしながら、一気にオチへと突き進んでいく。


いやはや——藤本氏の死後30年を経て、ここまで驚かされるとは思わなかった。

なお、この“難解さ”については、

「晩年で、わかりやすく丁寧に描く力が衰えたのではないか」

という見方もあるだろう。

だが俺はそうは思わない。

若い頃の「大長編ドラえもん」でも、アニメ映画版を観た後に原作を読み返すと、そのあまりにサッパリした描写に驚かされたものだ。

藤本氏はもともと、かなりクールなマンガ文法を使う作家なのだ。

ただし、この『ガラパ星からきた男』は、初出が小学館の学習雑誌『小学三年生』『小学四年生』『小学五年生』で、三ヶ月にわたって掲載された作品だという。

三年生はもちろん、五年生でも理解は難しかったはずだ。

しかも三回に分割されていたのだから、なおさらだ😅

……これはもう、藤本先生からの“難しい宿題”だと思うしかない📚

空いた時間ができて検索していたら、まったくノーマークだった作品の上映時間がちょうどだった。

タイトルは『ナースコール』。月並みだが、このスイス・ドイツ合作、傑作だった。


出勤する女性。表情は硬い。

これからの仕事への「気合い」と「運試し」と「諦め」、そして「使命」を背負った顔だ。


休日明けの更衣室。再会した同僚との会話は、感情を抑えた事務的なもの。


ナースステーションへ向かうと、遅番の一人が欠勤。

どうやら1フロア16床(だったか?)を、看護師2人+インターン1人で回すらしい。


――過酷な時間の始まりだ。


引き継ぎは、失禁した患者の処理から。

ゴム手袋、アルコール消毒。

その所作は、作中で何度も繰り返される。


仕事用の携帯は鳴り続け、わずかな隙も与えない。

通路のナースコールは、絶望のように赤く点灯し続ける。


主人公フロリア。

本来は美しい顔立ちなのだろうが、無表情と作り笑いが張りついている。


各病室には、それぞれの事情がある。

認知症、不安、孤独、痛み。意識不明の患者と付き添う家族。

末期ながら娘たちと過ごす母親。

不満をぶつける者、怒りを露わにする者。


さらに、逼迫した状況の中、急患が押し込まれ、

肺を患っているにもかかわらずベランダで煙草を吸う者までいる。


それぞれが人生の重大問題を抱えている。

だが、それらすべてを束ねて対処しなければならないのがフロリアだ。

そこには、どうしても埋められない齟齬が生じる。


彼女は献身的だ。

だが人手が足りない。

不測の事態が次々と起こる。


感情を抑えながらも、患者の理不尽な怒りに触れ、ついに爆発したりもする。

インターンにも当たってしまう。


命を預かる現場。

優劣はつけられない。

それでも「作業」には優先順位をつけざるを得ない。


だが観ているこちらは思う。

――あの処置、後回しで大丈夫なのか?


そこに犯罪はない。

だが、不謹慎なほどのスリルとサスペンスが生まれる。

上映時間は90分と短いが、

観客はずっと“体感”させられ続ける。


フロリアは、無表情のまま命を守り続ける。


この作品は、2030年に予測されるスイスの看護師不足をモチーフにしているという。

世界では1000万人を超える規模の不足が見込まれている。


そのテーマをここまでシリアスに、しかも観る者を釘付けにする形で描ききった演出は見事だ。


遅番が終わり、フロリアはギリギリでバスに乗り込む。

帰宅しても、夫とは別居中らしい。娘も夫のもとにいる。

疲れ果てた彼女に、ほんのわずかなファンタジーが訪れる。

――物語はそこで終わる。


本当はこのあと、自分が経験した過負荷な現場責任者の話や、

知り合いの介護施設オーナーへの敬意、

あるいは人手不足の中で問題を抱える教師の現実についても書こうと思った。

だが、それはまた別の機会に。


なお、日本版タイトルは『ナースコール』とやや単調。

だが原題は『HELDIN』――ドイツ語で「ヒロイン(女英雄)」を意味する。



予告編などを見ていて、だいたいの話の想像はついていたのだけど、それを上回る面白さだった。

よくある直球の物語ではあるが、いくつもの方向での細部の作り込みが見事だった。


日露戦争が終わり、世界との交流を始めた日本。

二人の少女が、フランスバレエ団の日本公演を観ていた。

フジコはそこから絵画的インスピレーションを得て、千鶴はバレリーナそのものを目指したいと願う。


…数年後、二人はパリで再会する。


フジコは、本場で出会う数々のアーティストの「表現の凄さ」に圧倒され、天性の明るさはあるもののスランプに陥っていた。

一方の千鶴は、パリで両親が開いた薙刀道場の跡取りとして、バレエに興じることを封じられていた。


だが、フジコの応援と行動力により、千鶴は音大に通うピアノの名手の青年、そしてそのロシア人の母親(イイ女! ちょっとエヴァのアスカ入ってる😅)である元ロシアバレエのダンサーから踊りを習うことになる。


フジコは、パリでの保護者であるおじさんの庇護のもと、アパートで一人暮らし。

そこでの人間模様も丹念に描かれる。

ロシア人親子、世話好きで料理好きのおばちゃん、振られて飲んだくれるパリジェンヌ、気の良いフランス人親子。


山っ気のある保護者のおじさんは、暴漢に襲われる騒動などもありつつ、やがて事業に行き詰まって遁走…。

フジコは、おじさんのパリでの仲間と途方に暮れながらも、なんとか生活を続けていく。


ちなみにフジコは「マメゾー」という犬を飼っており、おばちゃんにはいつも「マ・メゾン」と呼ばれている。

これ、マンガ『めぞん一刻』で、五代と響子さんの待ち合わせのすれ違いで使われていた聞き間違いと同じであり、フジコのアパートの住人たちのバラエティ豊かさは、「めぞん一刻」の一刻館の住人たちからインスパイアされた証拠だと私は見ている。


バレエの習得も徐々に軌道に乗り、厳しいテストを乗り越えてパリ・オペラ座バレエ団の研修生に合格した千鶴。

だが、薙刀道場を細々と続けている両親にはそのことを言えずにいた。


さらにドイツとの戦争が近づき、パリの道場は畳まれ、日本へ帰国させられそうになる。


しかし千鶴は両親のもとを離れ、フジコとともにパリに残る。

こうして二人は、庇護してくれる者のいない身となった。


フジコの応援のもと、千鶴はダンススクールに通いながら新規 薙刀道場を開き、金を稼ぎ始める。

だが生徒は、元の道場にも通っていた爺さん一人だけ…。


ダンススクールの先生は、どうやら外国人を舞台に上げるつもりはないようだし、ダンスの腕はピカイチで可愛い容姿の先輩ダンサーは、何かと千鶴に突っかかってくる。


戦火は日増しに強まり、フジコの外交官の兄は同僚を通じてフジコの帰国を促すのだった。


…こうして細かくあらすじを書いたのは、暴漢たちを含め、このキャラクターたち全員が、まったく取りこぼしなく物語の盛り上げに貢献しているからだ。


それぞれが程よく顔を出し、そのたびに小さなエピソードを重ねて、パリの現実感を作り上げている。

無駄がない。


良し悪しはあるだろうけど、俺は、物語の骨子は定番でありながら、平均律に混ざる和音のうねりの数々が「神は細部に宿る」を体現していると思う。


細部の見事さを一つ挙げときたい。

フジコとロシア人音大生ルスランの仲介で、千鶴子はバレリーナだったルスランの母親オルガに踊りの教えを乞う。

その時、椅子に座っていたオルガは、なんか知らないけど腕のストレッチをしながら聞き、いったんは断わるのだ。

なんでストレッチ?

でも、その「演技」には現実感が宿っていた。


惜しむらくは、千鶴に比べてフジコの物語が弱い…、というところ。


…最後に言っておきたいこと。


①ミルクジャム食べてみたい。

②フジコは音楽家を志すルスランとデキちゃう流れだし、千鶴はパリ領事館の矢島さんとくっつくでしょ?

また、ロシア人ダンサーのオルガは、飲んだくれのエンゾとの未来が見えるね😅

③バレエに行き詰まった千鶴、その開眼の理由が絶妙。リズム、調和、周辺視野…。

④薙刀やバレエ、ピアノ演奏に絵画の描写も、俺にその素養がないからわからないけど、見事に描いているのだと思う。



いま、フジテレビの「サンシャイン!」(3月末で打ち切りが決まっている)が、まるでイタチの最後っ屁のようにデマ情報を流している。


世界的事件となっているエプスタイン問題は、日本でも無視できなくなった。しかし、この問題は オールドメディアが既得権益側と深く結びついてきた構造とも無縁ではない。もはや隠しきれなくなった以上、彼らが取る手法は一つ――「攻撃対象におっ被せる」ことだ。

トランプ大統領は社交界で接点こそあったが、エプスタインの異常性を認識して以降は距離を取り、司法当局に危険性を何度も訴えていたという事実がある。だが、その点はほとんど報じられない。

一方で、エプスタインとクリントン夫妻との関係は極めて深く、多数の証言も存在する。旦那の性的放蕩は言わずもがな、ヒラリーに至っては、未成年への虐待現場で陣頭指揮を取っていたとも、被害者によって語られている。にもかかわらず、報道はそこを掘り下げない。代わりに「ファイルにトランプの名前が5000回出てくる」といった数字だけを切り取り、あたかも共犯であるかのような印象操作を行う。しかし、それは敵対者として頻繁に言及されていただけの話だ。

さらに、未公表文書にトランプの未成年者暴行が記されているという報道は、米紙のフェイクニュースであったことが判明している。それを周回遅れで流す姿勢は、報道機関として無責任と言わざるを得ない。

加えて、エプスタインをロシアのスパイとする陰謀論まで紹介している。これは典型的な「敵におっ被せる」手法だ。実際には、エプスタインはイスラエルの意向に沿って動いていたとする見方が根強く存在するにもかかわらず、そこには踏み込まない。

左翼主導のオールドメディアは、自分たちの問題を、何十倍にもして相手におっ被せる――いわば“スライド”を常套手段としてきた。

その構図は、高市総理のカタログギフト問題を大きく取り上げながら、それに額的に倍していて、なおかつ法に反する、野党側の「政治と金」問題を矮小化する報道姿勢と同じである。

車に乗るとナビが「今日は○○の日です」とか言うのだが、一昨日は〈新選組の日〉なのだそうだ。

で、車の中で新選組のことを考えていたら、池田屋襲撃は4人の試衛館出身者で行なわれたことを思い出した。

確か、敵の尊攘派は20人以上だが、沖田の持病の喀血はあれど、こちらは一人・藤堂平助の負傷で済んだことを思い出した。

ちょっと気になったので、藤堂はどこを負傷したのかを調べた。

…眉間に深手、だそうである。

その時、思い出した。「ドカベン」シリーズの続編「大甲子園」での、明訓高校メンバーの3年夏の甲子園決勝の相手は、新選組イメージの京都・紫義塾高校だった。

試合は激闘で、クライマックスで、紫義塾のキャッチャーが、難しいフライを、スライディングキャッチし、壁に眉間をぶつけ、「椿三十郎」並みの血飛沫をあげるシーンがあるんだけど、あれは史実に基づいていたんだなぁと、水島新司に改めて感心した次第⚾️





ベネズエラに続き、独裁政権の圧政に苦しみ続けていたイラン国民にとって、トランプ大統領はスーパーヒーローとなった…!


#歓喜のテヘラン #トランプ #中国共産党 
#イスラエル #イラン 



神様が本当にいたら、こんなことを何千年に渡ってやっていた人類をどう思っているのだろう。

「この赤ん坊は(切り刻んでから)8時間生きていた、新記録だ」などと喜んで語る権力者野郎どもだぞ。
俺は殺傷能力のある超能力が欲しい…。
#エプスタインファイル #黒の章
『ヤマトよ永遠に REBEL3199 第五章 白熱の銀河大戦』

物語は複雑に、しかも多重的に進行していく。
説明も「分かったような、分からないような」感覚が続く。

まあ、そのあたりは『エヴァンゲリオン』で鍛えられているので、「なんか凄くて良いなぁ」と受け止めることもできるのだが、総監督・シリーズ構成・脚本を担う福井晴敏のやり方は、楽しませるためなのだが、とにかく情報量が多い。
詰め込みすぎていて、場面場面をじっくり味わう暇がない。
もう少し呼吸を置いて、スローテンポで語ってくれてもいいのに、と思う。

福井晴敏という作家は、他ジャンルの物語構造やキーポイントを巧みに“借用”するタイプでもある。

たとえば――
『ガンダムUC』における「宇宙世紀憲章」の扱いは、隆慶一郎の『吉原御免状』の構造と酷似している。
また『キャプテンハーロック』では、詳細はネタバレになるので避けるが、本格ミステリーでよく用いられるクライマックスの大どんでん返しの構造が見られる(具体例を挙げるなら、森博嗣『黒猫の三角』のような手法だ)。

まだまだ挙げられるが、話を先に進める。

今回言いたいのは、『REBEL3199』にも明確な参照元がある、ということだ。

かつて松本零士は、西崎義展プロデューサーが物語のたびに重要キャラクターを死なせていくことに対し、「ヤマトは世界を広げ続けられる作品だ。なぜ毎回これが最後のような作りにするのか」と不満を漏らしていたという。

福井晴敏は、その松本零士の“スペースオペラ志向”をもきちんと継承している。
今作でも、単なる1シリーズ完結ではなく、これから先に連なる宇宙の勢力地図を提示してみせた。
世界観を拡張する方向に舵を切っている。

そして今回、私が強く感じた参照元は――
『スタートレックIV 故郷への長い道』である。

この作品では、未来のエンタープライズ号のクルーが、1986年の地球へタイムスリップする。
物語の鍵となるのは「ザトウクジラ」だ。
遠い宇宙から来た探査船が、地球の海にいたザトウクジラの信号に反応して飛来する、という設定である。
だが、エンタープライズ号の時代では、ザトウクジラは絶滅していたので過去に戻ることになっていた。

『REBEL3199』第5章のラストでも、ヤマトのクルーは2026年の“現在”へとタイムスリップする。
そして作中の重要キーワードもまた「クジラ」だ。

福井晴敏は、『故郷への長い道』に残る“クジラ”というモチーフを、自らの物語では戦艦「透明クジラ」という形に変換しているのではないか。

もちろん、単純な焼き直しではない。
だが、物語構造の参照としては明らかに意識しているように思える。

それでも――
いや、だからこそ、福井晴敏のエンタメ魂は実に痛快だ。

「そこまでやる必要あるか?」と思うほどの情報量と仕掛け。
しかし、タイトルである「ヤマトよ永遠に」という言葉までも回収しようとする執念。

この物語はどこへ突き進むのか。

正直、メチャ楽しみではある。



ゆりやんレトリィバァの監督作『禍禍女』を観た。
ゆりやん、演出の暴走なく、脚本の決定稿はプロに任せ、思ったより堅実な作り。
「暴走」は主演の南沙良だ。
『この子は邪悪』以来の映画館での再会だが、かなり凄い‼️
なんて端正な顔、可愛いなぁ…、のまま、極限まで突き進む。
いや、もちろん脚本・演出に忠実にやっているだけなのだろう。
美しいまま、ある意味、前人未到の狂気にズボリと飲み込まれていく。
途中から、「これはただ事じゃない」と姿勢を正して観た。
いちお言っておくと、禍禍女は南沙良じゃないからね。
…つまり、ゆりやんは、女なんて全て同じ、と言ってるのかな。
でも、実は…、って、どんでん返しもある話。
松本人志の『R100』みたいにならなくて良かったぁ😅