『ヤマトよ永遠に REBEL3199 第五章 白熱の銀河大戦』

物語は複雑に、しかも多重的に進行していく。
説明も「分かったような、分からないような」感覚が続く。

まあ、そのあたりは『エヴァンゲリオン』で鍛えられているので、「なんか凄くて良いなぁ」と受け止めることもできるのだが、総監督・シリーズ構成・脚本を担う福井晴敏のやり方は、楽しませるためなのだが、とにかく情報量が多い。
詰め込みすぎていて、場面場面をじっくり味わう暇がない。
もう少し呼吸を置いて、スローテンポで語ってくれてもいいのに、と思う。

福井晴敏という作家は、他ジャンルの物語構造やキーポイントを巧みに“借用”するタイプでもある。

たとえば――
『ガンダムUC』における「宇宙世紀憲章」の扱いは、隆慶一郎の『吉原御免状』の構造と酷似している。
また『キャプテンハーロック』では、詳細はネタバレになるので避けるが、本格ミステリーでよく用いられるクライマックスの大どんでん返しの構造が見られる(具体例を挙げるなら、森博嗣『黒猫の三角』のような手法だ)。

まだまだ挙げられるが、話を先に進める。

今回言いたいのは、『REBEL3199』にも明確な参照元がある、ということだ。

かつて松本零士は、西崎義展プロデューサーが物語のたびに重要キャラクターを死なせていくことに対し、「ヤマトは世界を広げ続けられる作品だ。なぜ毎回これが最後のような作りにするのか」と不満を漏らしていたという。

福井晴敏は、その松本零士の“スペースオペラ志向”をもきちんと継承している。
今作でも、単なる1シリーズ完結ではなく、これから先に連なる宇宙の勢力地図を提示してみせた。
世界観を拡張する方向に舵を切っている。

そして今回、私が強く感じた参照元は――
『スタートレックIV 故郷への長い道』である。

この作品では、未来のエンタープライズ号のクルーが、1986年の地球へタイムスリップする。
物語の鍵となるのは「ザトウクジラ」だ。
遠い宇宙から来た探査船が、地球の海にいたザトウクジラの信号に反応して飛来する、という設定である。
だが、エンタープライズ号の時代では、ザトウクジラは絶滅していたので過去に戻ることになっていた。

『REBEL3199』第5章のラストでも、ヤマトのクルーは2026年の“現在”へとタイムスリップする。
そして作中の重要キーワードもまた「クジラ」だ。

福井晴敏は、『故郷への長い道』に残る“クジラ”というモチーフを、自らの物語では戦艦「透明クジラ」という形に変換しているのではないか。

もちろん、単純な焼き直しではない。
だが、物語構造の参照としては明らかに意識しているように思える。

それでも――
いや、だからこそ、福井晴敏のエンタメ魂は実に痛快だ。

「そこまでやる必要あるか?」と思うほどの情報量と仕掛け。
しかし、タイトルである「ヤマトよ永遠に」という言葉までも回収しようとする執念。

この物語はどこへ突き進むのか。

正直、メチャ楽しみではある。
ゆりやんレトリィバァの監督作『禍禍女』を観た。
ゆりやん、演出の暴走なく、脚本の決定稿はプロに任せ、思ったより堅実な作り。
「暴走」は主演の南沙良だ。
『この子は邪悪』以来の映画館での再会だが、かなり凄い‼️
なんて端正な顔、可愛いなぁ…、のまま、極限まで突き進む。
いや、もちろん脚本・演出に忠実にやっているだけなのだろう。
美しいまま、ある意味、前人未到の狂気にズボリと飲み込まれていく。
途中から、「これはただ事じゃない」と姿勢を正して観た。
いちお言っておくと、禍禍女は南沙良じゃないからね。
…つまり、ゆりやんは、女なんて全て同じ、と言ってるのかな。
でも、実は…、って、どんでん返しもある話。
松本人志の『R100』みたいにならなくて良かったぁ😅

昨日は忙しい一日だったが、序盤は若社長とエドゥの三人だけで、のんびり話をしていた。

最初はエロい笑い話をしていたのだが、途中からAIの話題になり、「去年のAIの進化は凄まじかった」という流れになった。

 若社長はおそらく最新の勉強をし続けている人なのだと思う。

この人の凄いところは、それを深く理解したうえで実行できることだ。

しかも、インプットした知識をすぐに俺たちにわかりやすくアウトプットしてくれる。

 話の中で、これからの時代についての予測も出た。

公務員やアーティスト、ホワイトカラーの仕事は徐々に減り、金儲けの方向性も出尽くして、今後は“物理的に不安定な状況に対応できる、代替の効かない現場仕事”――力仕事やブルーカラーの時代になるだろう、という意見だった(俺も同意)。

 市役所のような仕事はどんどん自動化され、公務員は職を失う可能性が高い(同意)。

芸術の分野も、すでに模倣が容易になっていて、これからは完全にAIに追い抜かれる(同意)。

 そこでサッカーコーチのエドゥが「俺の仕事はどうですかね?」と聞くと、

「フィジカル系のスポーツは、人間がやって結果を出すことに意味があるから大丈夫」とのこと(同意)。

 もちろん、うちのような小さな飲食店も生き残る。

規模が小さい分、すべての作業を俺自身の個性込みで回さなければならないからだ。

 ただ――俺がこうして書いているような文章の行く末は、おそらくAIに取って代わられる。

それも、悲しいかな同意せざるを得ない。

 俺はエロ小説も書いていて、「他の追随を許さない、突拍子もないギリギリの素晴らしくエロい表現」を生み出せている、俺ってマジ天才だなぁ……などと思っていた。

だが、その表現ですら、書いた数十秒後にはAIに学習され、模倣されてしまう。

 でも、それももう仕方のないことだ。

 (……ここで参考の文章を書いてみたのだが、

  抑えめとはいえ過激なので割愛する😅)

 どんなに独創的で過激な表現でも、数十秒でAIに学習される。

だからといって隠していても意味がない。発表してこそ「社会性」が生まれる。

 そんな話をすると若社長は、

「発表した瞬間に模倣される独創性を秘匿しても意味がない。受け入れるしかない」と言った(同意)。

 では、その状況を受け入れたあと、人間はどうするのか。

ここから先は、正直なところ俺には明確な答えがなかった。

 俺は漠然と、「AIが完全に人間界を覆い尽くす前に、やれることをやればいい」と考えていた。

しかし若社長は別の方向性を示した。

 AIがあくまで“ツール”である段階では、

【AIが並べる膨大な知識を、生きた情報としてどう活用するか――その『選択』にこそ活路がある】というのだ。

 なるほど、それは確かにそうだ。

それこそを、人間の《知恵》と呼ぶのだろう。

 ……そして最後に若社長はこう言った。

「AIに本気で勝とうと思ったら、AIが思いもつかないような、論理無視の突拍子もない“狂気の沙汰”をやるしかないよね」(同意)。

『銀河鉄道999』は全巻持っているのだけど、先日メルカリで第1巻の初版を、俺の見立てではかなりの格安で買えた。
しかも1977年の書籍なのに、驚くほどの美品✨
その初版で読み直すと、こちらの気持ちまで高まるってものだ❗️

さて、何度もしてきた話をまたする。

主人公・鉄郎を銀河の旅に誘う謎の美女メーテルといえば、「永遠の美しきお姉さん」というイメージが定着している。
だが、物語初期の絵柄では、実は“美少女”だったのである。
顔立ちが明らかに幼いのだ。

長男だった俺は、子どもの頃から「年上のお姉さんタイプに頼る・甘える」という感覚を良しとしない性格だった(=竈門炭治郎タイプ)。
だからこそ、この初期のやや丸顔のメーテルこそが、俺の好みど真ん中だった。

この変化には、三つの可能性があると思う。

① メーテルが、母親を失った鉄郎の心を満たす存在になるよう、松本零士が計算的に年上化させていった。
——これは違う気がする。作者はかなり行き当たりばったりで物語を描いていたし、特にメーテルの“肉体のあり方”は毎回のようにブレていた。

② 第一話での母親喪失を埋めるかのように、作者自身の理想像が絵柄に反映され、メーテルが自然と年上寄りに変化していった。
——これは十分あり得る。作者の無意識が働いた結果という説だ。

③ 週刊連載では、絵柄はどうしても「描きやすい方」に流れていく。
松本零士にとって描きやすい線が、美少女ではなく美女タイプだった。
——おそらくこれが一番現実的だろう。

いずれにせよ、結果として“お姉さんメーテル”が世界を席巻した。
だが——初期の美少女メーテルの魅力を密かに推しているのは、きっと俺だけだ🩷



吉村昭作品を読み進める⑫

(14)『深海の使者』

この本、忙しかったり、他の本に手を出してしまったりして、途中で挫折するかと思いきや、一年以上の時を経て、ようやく読み終えた。

読み終えてまず思ったのは、読んで良かった、ということだ。
またひとつ、「世界」の一部を知ることができた。

物語は、第二次世界大戦中、同盟国ドイツとの情報伝達と、その連絡路を描く。
主役となるのは、希望峰回りで大西洋へ向かう大型潜水艦の数々だ。

知識がなかっただけに、日本の艦船が大西洋を進んでいた、その事実だけで胸が踊った。

国際電話は盗聴され、暗号は解読される。
そこで鹿児島弁で話すというトリッキーな手法が用いられ、当初は功を奏するが、やがてアメリカに帰化した鹿児島出身者によって解読されてしまう。
その男は後に東京裁判で通訳を務めるが、戦後の日本の荒廃、そして「母国を裁く側」に加担したことを悔やみ、自ら命を絶つ。

そのような無数の逸話を交えながら、潜水艦は大海原を進む。
荒れ狂う希望峰を圧壊寸前でかわし、制海権が連合国側に移りつつある大西洋で、爆雷の振動を感じ、酸素不足に苦しみながら深海を行く。

航路のポイントには、ナポレオン最後の流刑地・セントヘレナ島近海なども含まれる。

数ヶ月に及ぶ長い航海ではあるが、この時代、情報の遅滞は思ったほど大きくなかった。
各国のラジオ放送によって、世界の大事件は把握できたからだ。

また、運ばれるのは情報だけではない。
大型潜水艦による往復航海は、ドイツの最新兵器や設計図までも輸送する。

人間臭い気の緩みもある航海。
だが、ようやく往復を終えたと思ったシンガポールの自陣で、自軍の機雷に触れて沈没するという皮肉な運命も描かれる。

二度目の航海では、ドイツに滞在していたインド独立の英雄 チャンドラ・ボースの移送という特筆すべき任務があり、唯一 日本へと帰還する。

この頃から、海路に代わる空路が模索されるが、給油の問題や非友好国の領空通過という壁に阻まれ、結果的に断念。
再び、数ヶ月を要する海路が選ばれる。

だが第三便は、出港して間もなく、イギリス軍艦によって撃沈される。
潜水艦から生還した乗員たちのサバイバルも、非常に興味深く描かれる。

そして1944年、第四便。
世界は完全に連合国優勢へと傾き、制海圏は急速に狭まりつつあった。

ドイツは戦況悪化、イタリアは降伏、大西洋は連合国の監視下。
その只中を、伊号第二十九潜水艦は進む。

ノルマンディー上陸作戦前夜、ロリアン軍港のブンカー(掩体)に滑り込み、情報交換、機密書類、新兵器――ジェット機の前進となる設計資料――を積み込み、さらに便乗のドイツ駐在日本人を乗せる。

ここで私は地図とにらめっこをし、各地名を把握、ついでにクリストファー・ノーラン監督作にも登場するダンケルクの位置も確認した。
また、トム・クルーズ主演作で描かれたヒトラー暗殺未遂「ワルキューレ作戦」も、ちょうどこの頃だ。

もはや雲行きの怪しいドイツを脱出し、爆雷の音、上部海面を進軍する大船団の気配を感じながら、第四便は復路を進む。

この頃から、ドイツ駐在の日本人たちは
脱出を模索し始める。
譲渡されたUボートの逸話もあるが、ここでは割愛する。

伊号第二十九潜水艦は希望峰近くを進むが、
暗号電報によって、おそらくすれ違ったであろう第五便・伊号第五十二潜水艦の存在が示される。

この期に及んで、なおドイツへ向かう便がある。
すでにノルマンディー上陸作戦は始まっているのに、である。

伊号第二十九潜水艦は、その後シンガポールで積荷を下ろし、帰朝の途につくが、台湾近海でアメリカ潜水艦三隻の攻撃を受け、沈没する。

ドイツは敗北濃厚。
連合国軍は四方からベルリンへ迫り、ソ連軍は東から二百万の軍勢。
駐在武官や日本人は国外退避を余儀なくされる。

まるで、ドリフの舞台転換BGMが流れるような忙しなくも鬼気迫る情勢である。

しかし、そこへ軍令部からの無理難題。
「できる限りのUボートを譲り受けろ!」

日本人は、最後の最後まで食い下がる。

伊号第二十九潜水艦が持ち帰った資料は、
戦闘機「秋水」、攻撃機「橘花」、特攻機「桜花」を生み、さらに伊号四百型という超巨大潜水艦の就航にもつながる。

それは、地球上のどこへでも往復可能な航続力を持ち、陸上攻撃機三機を搭載する怪物で、ニューヨークやワシントンへの奇襲攻撃さえ構想されていたのだった……。

う〜む、イランの 反政府デモは、いまだ収まっていない。

報道量はやや減ったが、それはイラン政府がインターネットや電力を遮断しているためだ。


大人たちは子どもを家に残し、「行ってくるよ」と言って群衆に合流する。

そして、銃撃され、あるいは装甲車に轢かれ、帰らぬ人となる。

捕縛された者は簡易裁判にかけられ、処刑される。

家族との面会時間は、わずか10分だという。


イラン国民の一部は、トランプ大統領の決断に望みを託している。

トランプはイスラエルとの関係もあり、思うように動けない中で、中東に大規模な艦隊を派遣している。


さらに、ベネズエラで使用されたとされる新兵器

「ディスコムボビュレーター(Discombobulator/混乱させる装置)」の存在が発表された。

これにより、ベネズエラ軍の中国製ミサイルが機能停止に陥り、無力化されたとされる。


今回の発表は、イラン最高指導者アリ・ハメネイ師が居住し執務を行う施設群「ベイト・エ・ラフバリー(Beit-e Rahbari/“指導者の家”)」への使用をあえて匂わせたものだろう。


情報を遮断し、国民を苦しめるイラン政府に対し、その“苦痛”を倍返ししようとしている――、そんなメッセージにも見える。

メルケルの移民政策は、結果として、ドイツ、ひいてはヨーロッパに取り返しのつかない混乱を招いた。

もはやこれは理念の問題ではなく、政策の失敗だ。

その破綻が明白になった後ですら、NHKを筆頭とする反日メディアは、移民政策を「善」として語り続けてきた。現実検証は、ほぼ行なわれなかった。

俺は、日本にとって、移民もLGBTも、やむを得ない側面があること自体は理解している。

ただし、不法移民と行き過ぎた制度運用を認めない、というだけの話だ。

福生に生きているからこそ、移民が必ずしも悪ではないことも知っている。

だがそれは、米軍という強力な抑止力が機能している、という特殊条件の上に成り立っている。

実際、過去にはその抑止が及ばず事件も起きたし、沖縄では今も問題が続く。

それでも左翼メディアや運動家は、特定の米軍事案だけを過剰に取り上げ、その20000倍規模の、在日アジア人やクルド人による移民犯罪・治安悪化という構造的問題には沈黙する。

理由は単純だ。

彼らの関心は治安でも共生でもなく、日本社会の弱体化にある。

治安維持に協力している米軍は排除したがり、一方で、無秩序を生む制度の緩みは正当化する。

結果、日本を「規制なき空間」に近づけようとしているだけだ。

   移民そのものが必ず腐るのか――

それは俺にも断言できない。

だが、管理なき移民政策は確実に社会を壊す。

今回の衆議院選挙の争点は、やはり「移民」と「国防」だ。

俺は、移民法制を厳格に整備するだろう高市政権に一票を投じる。

何年も前から言っているが、移民政策の失敗でヨーロッパは深刻な混乱に陥った。

一方で、路線を修正したトランプ・アメリカ、メローニ・イタリア、そして歴史を踏まえ移民を抑制してきたポーランドは、相対的に「平和」を保っている。


マンガでお笑い芸人を描いて、なおかつ読者をちゃんと笑わせる——。

これ、実はものすごく難しいことだと思う。

お笑いの重要な要素には「間」があるし、ネタ自体も、作者にお笑いのセンスがなければまったく機能しない。

長いあいだ、マンガで描かれる「お笑い」は、青春物語の中の記号でしかなかった。

だが、平成の中頃あたりからだろうか、作中のお笑い芸を見て、読者が本当にクスリと笑える表現が、少しずつ確立されてきた気がする。

森田まさのり『べしゃり暮らし』の作中漫才のテンポ。

『あかね噺』の落語——あれは納得させられる(落語って、その「納得」の様式美にニヤリとさせられる側面がある)。

『呪術廻戦』では、高羽史彦の領域展開における、最悪の術師・羂索との、作者入魂(と思われる)のギャグバトル……。

いずれも、ちゃんと面白い。

ギャグ漫画ではないのに、作中で描かれる「お笑い芸」が成立している。

そして最近 ジャンプで始まった『さむわんへるつ』。

これもまた、ギャグがちゃんと面白い。

恋愛漫画の側面もある本作は、主人公とヒロインがラジオ番組のリスナーとして、大喜利ネタの採用を競う物語だ(芸人ではないけど…)。

正直に言うと、俺は大喜利は苦手だ。長文で笑わせたいタイプなので、IPPONグランプリなどを見ても、毎回「すげぇ…」と感心させられる。

この作品にも感心させられている。

語られる大喜利のネタが、マジでちゃんと面白い。

しかも、ラジオ用のネタだけじゃない。ヒロインのほぼ全てのセリフがボケとして成立していて、それが自然に笑える。

そのボケを理解できる自分を、「まだまだ若いな」と思えて、ちょっと嬉しくなる。

ヒロインの絵柄も、シンプルで可愛い💕

みなさん、『さむわんへるつ(ヤマノエイ)』、読んでみてくださいな❣️


『#愛しいチグサ 』…傑作!

昨日(1/21)の朝、ふと思い立って #島田荘司 の新作を検索したら、…僥倖、なんとまさにその日に刊行されたばかりの作品があった。

すぐ本屋へ走り購入。

昨夜、一気に読破。 

 ——やっぱり島田荘司だ。

まだ、こんな傑作を書ける。 

作中で言及されるスコットランド民謡「アニーローリー」をスマホで流しながら読み進め、いやはや……ボロボロ泣いた。

 2020年に英語で発表された近未来SF恋愛ミステリーの日本語版とのこと。 

逆輸入翻訳ゆえか、どこか村上春樹的な空気もあるが、あの“軽さ”とは違う。

島田荘司の密度は、体感で20倍は濃く熱い。

表現の差異はあれど、手塚治虫『火の鳥 復活編』からの影響は明白だ。

あとがきエッセイがあるのだから、そこへの言及がなくてはならなかったと思う。

それでも、島田荘司の語り口はやはり巧みで、来るべき時代の恋愛の姿を見事に描き切っている。

 直木賞ノミネート作『夏、19歳の肖像』や、御手洗潔シリーズ屈指の人気作『異邦の騎士』で描かれた「悲恋」が、ここでも、島田荘司の精神的な“若さ”を伴なって立ち上がる。

チグサは、女神のように美しかった……‼️

だが、それだけでは終わらない。 

人間の動きや感情すら支配する電気信号を一種の神になぞらえ、アーリア民族の大移動から世界史を洗い直し、原発、そしてAIへと接続していく大胆さ。

 島田作品に顕著な女性論もある(^◇^;) 

 主人公を中国人に設定したのも、『三体』への目配せだろうか? 

相変わらず欲張りで、スケールが大きい。

 まさに「ゴッド・オブ・ミステリー」島田荘司である❗️

 ……いやはや、マジ感動した…。


吉村昭作品を読み進める⑪


いやはや、このシリーズ、昨年は一度も投稿していない。

読書する時間と心の余裕がなかったのもあるが、何より、本に没入する集中力そのものが落ちていた。

このままでは、マンガばかり読んで世界を語る人間になってしまうのではないか──そんな恐怖すらあった。


今回読んだのは550ページの大著だが、4日で読み終えた。

古本屋で100円で買ったが、あまりにも惜しい面白さだった。

新しいビジネスに挑もうとしている弟や、大学に進み海外で活躍したいと言うユーキ君には、ぜひ読ませたい一冊である。


ちなみに、俺はネット上の文字を追い続ける日々を送っているが、ネットの文字と、書籍の文字では、脳の使われ方がまったく違うことはお伝えしておく。


13)『アメリカ彦蔵』


当然、実話である。

鎖国時代の日本。

廻船(輸送船)の船乗りとして太平洋岸航海に出た彦太郎は、江戸からの復路、大時化に巻き込まれる。

巻き込まれたのは嵐だけではない。

それは、これ以上ない【数奇な運命】そのものだった。


押し寄せる大波に、木の葉のように翻弄される船。

帆はもはや意味をなさず、儀式的に髷を切り、ざんばら髪で神に祈るも届かない。

船を安定させるため、マストを叩き切る。

だがマストを失うということは、嵐が去っても、大海原を進む手段を失うということだ。

ただ潮流に身を委ねるしかない、広大な太平洋での破船漂流が始まる。


幸い、積荷に食料があり即座に飢餓には陥らなかったが、

不安定な立場に置かれた一行は、精神的に追い詰められていく。


──やがて、一行はアメリカ船に救助され、そのままアメリカへ連れて行かれる。


ここから物語は、今流行りの「異世界転生」物のような世界に入る。


現代の我々なら、当時のアメリカをある程度想像できる。

だが、鎖国日本から連れてこられた異国は、中世ヨーロッパとも違う、近世欧米世界。

まさに“ファンタジー”だった。


もちろん、漂流民にファンタジーという概念はない。

だが、見るもの、聞くもの、食べるもの、すべてが新鮮だ。

そして、庶民でさえ読み書きを身につけていた勤勉な日本人は、時を経て、例外なく頭角を現していく。


昔から漠然と思っていたが、最近のアスリートの世界的活躍を見て、確信に変わった。


日本人は、極めて優秀な民族である。


大谷翔平や、先日ブラジルに勝利したサッカー代表だけではない。

損得を超えた真心で、日本人は世界中で信頼を得てきた。

ノーベル賞も、実学──化学などの分野で必ず獲得している。

また、過去の世界大戦で、名だたる将軍たちが口を揃えて「最も手こずった敵は日本兵だった」と語っているのも事実だ。


日本人は、極めてパフォーマンスの高い民族なのである。


話を戻す。


鎖国時代、日本人が公式に海外へ出ることはほぼ不可能で、外界に出た者の多くは「事故」によるものだった。

しかも彼らは、海という現場で汗水流していた庶民である。

そんな彼らが、思いがけない海難で異世界へ放り出され、それでもなお、ほとんどが見事に順応していく。


13歳で遭難した彦太郎──

この名前すら、後の「ピコ太郎」に通じるような気がしてしまうが──

彼は、その中でも群を抜いた存在だ。


正直に言えば、大谷翔平以上の活躍である。


彦太郎改め彦蔵は、ピアース、ブキャナン、リンカーン──三代の大統領と挨拶を交わし、ジョン・万次郎とも対面しエールを送り合い、語学力を買われて日米外交の最前線へ。


横浜外国人居留地では攘夷派による暗殺の危機に遭い、南北戦争下の緊迫した東海岸を船で渡り、日本初の新聞を創設。

一部で悪名高いグラバーの仲介役として新政府軍に兵器を供給し、伊藤博文とは船宿でのんびり寛ぐ。


──たかが、漂流しただけの13歳の少年が、である。


まさに、スーパーネゴシエイターだ。


若さもあったのだろうが、彦蔵は「愛されキャラ」だったのか。

容姿の描写はほとんどないが、作品には、亡き母が「目鼻立ちの整った女性だった」と一箇所だけ記されている。

現存する写真に愛嬌はない。

だが若き彦太郎には、相手の思いを受け止め、投影させる素直さがあったのではないか。

その結果、認められる人格が形成されていったのだと、俺は思う。


彦蔵は特異な存在だが、香港、マカオ、上海、広東、サンフランシスコ、ニューヨーク、ハワイ、長崎、横浜──彼は多くの漂流民と出会う。


彼らの多くも頭角を現し、有能な人材として重宝された。

だが、望郷の念だけは消えない。


吉村昭は、彼らの「その後」を、映画『仁義なき戦い』シリーズのエンディングのように、クールに、淡々と描いていく。


それが癖になる。

漂流民が登場するたびに、

こちらは無意識に「それまで」と「その後」が語られていくのを想像し、胸を躍らせてしまう。


「漂流」という過酷なテストを経て、鎖国時代の日本人は、世界で驚異的な活躍を見せた。


だが同時に、そのイニシエーションは、日本と異国(彦蔵にとってはアメリカ)の間でアイデンティティの置き場を失うことでもあった。


それは、物理的漂流が生む精神的漂流であり、ジョセフ・ヒコもまた、その狭間で揺れ続けたのだった。