☆麻生総理は、テレビのインタビューなどで、この連続した事件の関連性をまだ「連続テロ」とは断定していない。


 ・・・が、うん、私はテロだと思う。


 それが、個人レベルに拠るのか、組織レベルに拠るのかが分からない。


 私は、個人レベルだと感じている。


 さて、年金問題において、あれだけ反厚生省プロパガンダを行なってきたマスコミだが、この問題においては、手のひらを返したような報道を昨日から行なっている。


 ・・・いやはや、この事件を犯した犯人の意思決定は、あんたらの報道の結果なんだよ!!!

☆「テツヤ」と言う名の人物について連続して書く。


 ・・・私は、十数年ほど前、とあるカンボジア絡みのパーティーで、生の筑紫哲也を見ている。


 この時、彼は挨拶をしていたのだが、その挨拶の内容が抽象的であり、かつ意味不明の内容だった。


 なにやら、意気消沈した態で、「・・・現在は、それまでの正しいことが正しいとされなくなってきている時代だ、ウニャムニャ」と語っていた。


 私には、その原因が分かっていた。


 この頃(90年代後半)、小林よしのりの『戦争論』が発売され、<新しい歴史教科書をつくる会>の活動が活発化しはじめていた頃だ。


 つまり、筑紫らの戦後民主主義的な、日教組教育的な、現実にそぐわない思想が、圧倒的な「事実」の前に、ぐらついていた頃なのだ。


    ◇   ◇


 だが、その後も、筑紫哲也ら左翼連は、ここまで生き延びている。


 死去に伴っても、メディアにおいて、それなりの評価をされている。


 ・・・左翼思想の需要はまだまだあるのだろう。


 とはいえ、筑紫自身は、自分のこれまでの人生が、足元からグラグラ揺れ動き、崩れていきつつあることを、誰よりも分かっていたと思うのだ。


さようなら、ミスター左翼!

☆逮捕され、しばし、ことの次第を見極めた後に、堰を切ったかのように小室ミュージックの批判をするマスメディアやブログが散見された。


 大体において、「薄っぺらい」とか、「底が浅い」とか、「バブルの申し子」だとか、主に、その音楽性の軽薄さで語られていた。


 ・・・私は、小室の作る曲は嫌いじゃなかった。


 いや、結構、好きだった。


 CDも、何枚も持っている。


   ◇   ◇


 私の姉は音大出で、小室哲哉の曲を嫌悪していた。


 かつて、私がCDなどを聞いていると、「こんな曲のどこがいいの? いいトコを挙げていってよ。私が全て否定してあげるから」などと、比較的温厚な姉が言うものだから、私は、よほど、小室の音楽を不快に感じているのだなあなどと思ったものだ。


 ただ、私は、その薄っぺらさは理解していたが、どうにも体に反応する音楽であり、魅力的に感じたので、こう答えていた。


「簡単だよ。ダンスミュージックだから、リズムが大きく刻まれている。そのリズムの単調さは、原始的なシンプルさを含んでいるから、すんなりと耳に馴染むんだ。太古の太鼓のリズムと同じだよ。歌詞も、ごくごく普通の内容で、嫌味がない」


 すると、姉は機先をそがれた表情になっていたものだ。


 小室は多作で、現在の坂本龍一の寡作さに比べたら、よっぽどいい曲を、世間様に送り出していた。


 坂本のような、妙な思想に陥らない節操のなさも良かった。


 ・・・カムバックしても、もはや、大きなヒットは難しいかも知れないが、小規模に頑張って欲しい。