令和2年3月課題
「暮れ泥む頃」
「ホーホケキョ・ケキョケキョケキョケキョ」もう1か月ほど前から鶯の耳触りの良い鳴き声が聞こえてくる。 いま、この美しい「ソプラノ」を聞きながらパソコンの前でキーボードに向かっている。桜は満開でも、花見は自粛要請。一刻も早くコロナウイルスを終息させるためにはやむを得ないことだと言い聞かせ、運動不足の体に鞭打ってさらに運動不足になるデスクワークに取り組んでいるところだ。
3月に続いて4月もすべての講座が中止になった。自分の所属している「エッセイクラブ」も例外ではない。 実は今日はアピタに開店を待ってコメ10キロとその他食料の買いだめをする、女房殿に付き合った。もちろんコメ10キロの運搬係として………。
国の外出自粛要請にこたえるために家籠りをするのだ。
そこで、エッセイを書いてみたいと思ったのである。もちろん宿題ではあるが、書いてみたくなったのだ。これなら外出しなくても済むし、ろくでもない今までの人生経験と、たまりにたまったストレスの分析にはちょうどいいかもしれないと思ったからでもある。
暮れ泥む頃というのは、中々暮れない情景を言うのであるが、我々の年代なら武田鉄矢氏の「贈る言葉」を思い出す人が多いと思う。
「暮れなずむ町の 光と影の中 去りゆくあなたへ」………贈る言葉。である。
卒業式などでよく歌われたようであるが、最近はほかの曲がとってかわったみたいだ。
「蛍の光」で育った人たちにはピンとこないと思うが、今では何でもありになった。
ユーチューブで、たくさんの「贈る言葉」を検索して聞きました。その中に鉄矢氏がこの曲のできたいきさつを話していたものがあり、興味をひかれた。以下抜粋します。
「実は博多で大学に入ったばかりの時に恋をしました。何か月間の間、恋をして、自分が相手の女の子よりも余分に満足しようとした為、嫌われてしまいました。そして天神という盛り場で振られてしまいました。その人の別れの言葉はいまだに忘れられません……。
『大きい声出すよ』…というね、ほとんど刑事事件直前の言葉で振られてしまいました。
もうちょっとしつこかったら、かなり法に触れるというね。…… 罵りだけで終わりました。
非常にみじめな恋でしたが、その人の去っていく怒った後姿を、泣きながらジーーっと見つめていました。(しばしの間があって)
不思議なもので、何十年か経つとそのみじめな思い出が、美しくミリオンセラーの歌の歌詞になってしまいました。人生とはそういう味わいの深いものであります」。
ここで大きく笑いを取ってから、「贈る言葉を」歌ったのであります。
ところで、歌唱力というか、歌い方についてであるが、おこがましいとは思うが言わせていただけば、「若いころは『歌っていた歌』が今では『語る歌』になってしまった」。
これは、暮れ泥む頃の歌手にはよくあることだ。
年のせいで歌えなくなった歌が、年の功で語る歌に進化したのか、退化したのか?
判断は、あなたに、委ねたいと思いませう。