空っぽになったみたいに、透明になったみたいに、俺の心の中はスカスカになっていく、今日も彼らとすれ違うと、声を遮るため、俺はイヤホンをつけてX JAPANの紅を大音量で聴く 見事に音漏れしているだろうが、俺は気にしなかった。
人を素直に褒められず、人の幸せを素直に祝えない、人に媚びを売るのが気持ち悪く見えた、嘘をついてまで嫌われたくないと思うやつらが、子供に見えなかった。そんな、今の社会から見たら
ミョーな感性を持ってる自分の成れの果てだろうか、俺の青春は止まったままだ。
いや…もう青春という名の止まった針は動き出すことはないだろう、自分はみんなからは嫌われている、自分みたいなタイプの人間はお払い箱だと何度も痛感させられた。担任も事なかれ主義で、なるべく口論や喧嘩が起きないよう 「本音と建前」という言葉を生徒によく使っていたが 自分は納得できなかった、正直に相手に気持ちを伝えて何が悪いのか、俺には分からなかった、自分がおかしいのか、周りがおかしいのか。
気づけ時は無情に過ぎていた。
この2年間自分は何をしただろうか、魚のように目を開けたまま天井を仰いで真横では幾つもの時代が流れた、気づけば小学校の時からそうだった、この2年間楽しかったことなんて数えられる、家族との旅行は楽しかった、でも 友達と遊びに行ったりなどしたことはなかった やはりずっと家族といるとマンネリを解消したくなる。
不登校は悲しいことなんかじゃあない、それを実感した年だったし こうやって一度落ちたからこそ見えた光もあった。
まずは自己紹介から。
俺の名前は飛沫(しぶき)、仮名 15歳、中学三年生。
世間一般で言う不登校だ。
自分の半生を話して行こうと思う。
近々 不登校に対しての世間の目が厳しくなっている、一番ショックを受けた言葉は「甘えるな」 だ 俺は学校に行きたいけど行けない なのに甘えだと言われる筋合いはないと思っていたが、
世間はそう甘くはなかったのだ。
自分は普通の家庭に生まれ 両親から愛情を注がれ育った、だからこそ なに不自由なことはないと思っていた だがこの性格のせいで、自分が徐々に孤立していることに気がつかなかった、それは歳を重ねるごとに周りを気にするようになってから、やっと気がついたのだった。
小さな時から身体が病弱で、何度も入院した、今でも身体の色々な発作が出ると 最悪入院になります笑。
身体が弱いだけなら、ガッツでなんとかなると思っていたから、不登校になるなんて思いっていなかった、
自分が幼稚園の時の話はうろ覚えで、後で親から教えてもらった話なのだが。
2歳半から幼稚園に入り 家族とも新しい始まりに胸を躍らせていた、が…幼稚園の初日に、母が迎えに来た時、
「あなたの子供、他の子たちと仲良くできてない、どうすればいいですか?」
幼稚園の先生がそう眉間に皺を寄せてそう母に問うたらしい。
そこから 差別やいじめ、贔屓が渦巻く俺の人生が始まろうとしていた。
母は笑顔で先生に何があったかを聞いた 母は決して人の前で困った顔や疲れた顔を見せなかった、
俺は覚えてる限り幼稚園で他人に手を出したりしたことはないし、暴力は嫌いだった。喧嘩もできない人間だ、脳を絞って思い返してみると、
幼稚園の最初の日、二人の先生がいたが、そのうちの一人の先生の人相が悪く、ぶっきらぼうな人だった。思わず俺は「 先生怖い!!嫌い!!」といってしまったみたいだ、その先生の一派と呼ばれている子たちは当然先生にそんなことを吐いた俺を良く思ってはいないだろう、そこから友達や先生のネグレクトが始まった、俺は幼稚園に行くたびに先生と顔を合わせなければならないのが地獄だった トイレの場所も教えてくれず、まだ右も左も分からない自分に何も指導もしなかった。
具合が悪いと訴えても「他に当たって あたしのことが嫌いなんでしょ」と一蹴される。
ある日、母が俺の持病や薬のことを伝えるために幼稚園に行った時、園長先生が母に
「〇〇先生は飛沫くんの面倒を見ないようにしてますので、他の先生にお伝えください。」
と言われたらしい、母はそれで始めて俺がネグレクトされていることを知ったらしい。
12年前だったこともあって、パワハラやネグレクトに対してのヘイトは今ほどなかったし、両親は争いをしたくなかったのだろう、そのまま抱え込む結果となったらしい。
それからというのも、その先生とは毎日のように顔を合わせたが、日に日に その目つきは鋭く 形相は鬼のようになっていった。それが幼稚園を辞める理由だった。
それから自分の笑顔が消えていった、母は俺にたくさんのことを学ばせようと 音楽教室に通わせてくれた、幼稚園の先生へのトラウマは自分の人生に多大な影響を及ぼした、それから大人が怖くなり、どんどん口数も少なくなったらしい。
その出来事から、母は自宅から10キロほど離れた私立幼稚園に通わせた。朝早く起きてお弁当を作り、長い道を自転車を漕いで送ってくれた、その幼稚園は殆どの人が近くに住んでいるから 俺は一緒に帰ったりする友達がいないことに寂しさを覚えた。
それからもトラウマは消えることなく小学校へ進むことになった、入学式を終えて自分も親もまた新しい道へ一歩踏み出したのだったが、
ある日の算数の授業で 俺は式の作り方がわからなかった、それだけなのに、担任は俺に
「これ、みんなできるわよ?なんでわからないの?ねぇ、いい加減にしてよ。」
と俺は少々ヒステリックな担任にまたもやトラウマを負わされた。
だがその担任の猛威はこれだけではとどまらない。
その日の給食の時間 アレルギーのせいで、おかずが食べられなかったが、先生はそれを勘違いしたのかしらないが「残すなんて給食の人や農家の人たちに失礼でしょ?もう食べなくていいです!」と怒鳴ってトレーごと給食を持って行ってしまったこと。
放課後 俺はその出来事を母には話せなかった、そのまま昼食をろくに食べずスポーツに行ったのを覚えている。俺はその日の夜 明日学校に行くのが怖くて仕方がなかった 明日の献立ももう見たくなかった。
そして後日の給食の時間、ついにそれは起こった。
俺は給食のアスパラガスを一口飲み込もうとした時、思考が停止し、時間が止まった気がした。
喉に詰まらせたのだ、先生は異変に気付き、慌てて俺の背中を何度も叩いた。やっと吐き出すことができて安堵する俺を待っていたのは、またしても先生の軽蔑したような目だった。
「嫌ならもう給食を食べなくていいです。」
そのまま先生はトレーごとまた給食を持って行ってしまった。
この状況でどうしてそんな言葉が口から出るのか、先生の神経がわからなかった。
またしても昼食にありつけられなかった俺は、下校した時 迎えに来た母に「とても顔色が悪い」と言われた。
俺は鏡を見た、とてもやつれてる
その日の夜 晩御飯を食べた俺は 初めておかしなことに気づいた。食べ物を飲み込むとができなくなってしまったことに。また喉に詰まらせ、やっとの思いで吐き出した。
母は心配して、後日 すぐさま大学病院に連れて行った。
母は先生に「異常なことなので、詳しい検査よろしくお願い致します。」とお願いし、俺は母が付き添いで入院することになった。
その日から色々な検査が始まり、喉に異常はないとのことだったが、観察のため 看護婦や医師と一緒に食事を食べることになった 周りからは
「頑張れ」「飲み込んで」「できるできる」
という声が飛んできた、 余計プレッシャーを感じる。
試行錯誤も虚しく 俺はどうしても食べ物を飲み込むことができなかった。入院した10日間はずっと点滴による栄養摂取という形になった。
その間に母は先生に相談をした。
「息子には昔から扁桃腺があるんですが…もしかしたらそれが原因かもしれないんです…、このままじゃ…この子は死んじゃうかもしれません…なんとかしてください…」
「そんなに心配なら本当に扁桃腺が原因か調べてみますか?」
と医師。
「お願いします!!」
母は藁にもすがる思いで先生に頼んだという。
入院中 俺は何度も思い出した、給食の時の先生の軽蔑したような目 あの怒鳴り声。
それから扁桃腺の手術をすることになった、数日間声が出なかったが 頑張って喉のリハビリをして、やっと粥を飲み込めるようになった。
それから母は「お母さんはあなたの気持ち全部わかったから、学校行きたくないなら、行かなくてもいいよ。」と言われた瞬間 緊張の糸が全て解けて、残った喉の違和感もすべて無くなり、飲み込めるようになった。
今思えば うちの母は 他人のせいにしたりすることは無かった、自分にも人を責めるのは悪いことだと教えた。
自分自身学校は嫌いじゃない、むしろ 自分に非がないなら、毎日でも行きたいぐらいだ。
学校では 協調性 後に社会に出るために必要なことをたくさん学べる場として大切だと思っている。