朝からパンを食べたいと思えない。

この「~したいと思えない」というセリフ回しとともに

あの一ヶ月前の事件いや事変とでも言うべき出来事の断片が

無遠慮にわたしの脳みその柔らかい部分に不時着するのだけれど

この~したいと思えないという稚拙な響きと自分の中の住まうエゴのかたまりみたいなものに辟易し

結局はそいつのそれと同じ世界をわたしも持ってるのだという嫌悪感にして脱力感みたいな煙に包まれ

パンとその事件のそれの重さ軽さなどはその世界を前にしては背が高いか低いかの違いくらいで本質的にはほぼ同等

皮膚の下一枚ぺろりとめくれば同じものが入っていて同じ世界同じかたまり同じ細胞。なんてことをほぼ瞬間的に考えた後本当に内側からなんだか皮膚の全身の細かい穴チャネルというチャネルからいろんなイオンがだだもれして行くような一瞬活動的な電流が体中ぴりりかけめぐるようななんだか忸怩たる思い。

阿呆らしくて強烈な自我とぬるさ。


 そういえば桜も散り新緑美しい5月の少し肌寒い夜に長い電話をした。

これは世界の崩壊ともいえるできごとで大げさではあるが今まで信じてきてた重要なことがまったく違うベクトルを向いてたということに気づかされたんだから世界の崩壊というに値する出来事。

私は物事を深く考えないようにする 忘れる なかったことにしてみる 

とかいう世界で生きていくうえで皆やってる小技を身につけてなかったことそしてその世界の大まかなコンセプトを解さず解せず

世界の人間が私とまったくべつのことを考え別の方向性をもって歩みを進めているのだということに驚き

そして電話越しのその何の変哲もないちっぽけな男がほんとうに世界の代表者みたいに思えてきて

その新しい世界を前に私はディズニーランドのアトラクションの説明係の一人とも思えたその男の話に耳を傾けながらもその男がこの世界の根底にある日常生活というぬるい次元での色々をすべてわかりきっているような気分になった。

だからいま私が 当時の彼にしてみれば変わった女が話すこの世界のいろいろな視点を彼がどのように理解しどのような思索を巡らせ純粋に或いはとても達観した思いで聞いているのだろうかと考えていた。

青さを全て見透かされているような思いとそれとは全く逆の相反する変な気持ちの中彼の中にも存在する青さが激しく火花を散らし

世界と世界のきめ細やかな抗原抗体反応の後

彼の意識の外で行われたそんな私の思索に気づいているのかいないのかはわからないけど私が彼をすごいと思ったのは後にも先にもそれのみで彼の強烈な青さに気づきはじめるのはもっともっと後の話だけれど私が変わったのか彼が変わったのかそれはどうしてもわかりっこないことで衝撃とも言えるその出来事にその一人の男に漠然と興味をいだきはじめたのも事実。


 そんなこんなで後々いろいろとかかわっていくことになるこの男と私の関係性は人々がうーんと首を捻りたくなるような新しさと鈍さをもって発展してゆくわけであるが、それはこの一人の男いや人間に対する私の好奇心と精神性の所産であり、そう思うと動物的な何かを感じたというわけではなく私たちいや私は大脳の辺縁系よりも新皮質で惹かれたということにおそらくなるのだと思う。

真っ白な自我真っ赤な好奇心交じり合ったとうすピンク色の諦念と少し油でにじんで鈍く光るぼてっとした金色の野望

ひらひらふらふら金魚のような男がもつ透明で狭苦しい水槽の中の退屈と憂鬱とを

その悲しいくらいまともで正しく愉快な世界をほんの少し観賞していたいなあと思ったのです。



つづく

 

 今日行こうと思ったけどやめた。

髪型が決まらなかったからだ。

これだけのそんなくだらない理由に私たちは右往左往してる。

私たちの生活の奥行きというものは実にくだらないことで構成されている。


 そんなこんなでなみなみとお椀に注がれるかす汁を飲み干した。

朝昼兼用 ブランチなんて言い方をするとかっこよく聞こえそう。

かす汁に入れる酒かすをペーストするとなめらかですごくうまい。

このひと手間それだけで世界の彩度が増したように思える。

これはこの世の中がくだらないということの部分的証明である。


 界  は


如 

  何 

     様


        に

   も

変 

   わ


      る。

そうやん


ジュンク堂行けば座り読みとやらができるはず。


あそこはたしかイスがあったはず。


そこで読みたい新書読んで帰ると、


そうしよう。


カラオケも行こう。


買わなければいけないものをぼちぼち考えておかなければ。


大雑把に言って図書館と書店の違いっていうのは

絶対的な目的みたいなもんがあるかないかにあると思うのです。

売り上げをあげるという絶対的な目的が書店にはあるが

図書館にはない。

貸し出すという目的はあるがそれは絶対的ではない

だからなんというか

必死さが違うんだよね。

図書館はよくもわるくもぬるく、

いらっしゃいませ ありがとうございました

は図書館にはない。

ある秩序のもとに整然と並べられた本棚

クリーム色の、ぱっと目を引かない見出しが

棚の端のほうにやる気なくぷらぷらとぶらさがってるだけで


こっちの貸し出し意欲をそそる努力の片鱗も見えないいやむしろそんなものを超越してそれはそれとしての自我を確立しておるから凄い。


だからだろうか


書店の華やかに彩られた新刊コーナーとポップアップの数々


明るい照明に照らされて、本の緑やピンクの帯が輝いて見える。


この図書館にないわくわくどきどきを携えて、不思議と新刊コーナーに足が向く。


本が光を放っている。(本が光輝く必要があるか?!とも思えるけど。)


だけどもここで同時にふとわれに返る。


ピカピカのハードカバーを手にとって


「この一冊に1400円の価値があるとどこでどう判断して人は新刊を購入するのだろう。」ってことを思う。


考えても御覧なさい。いや、考えてみませんか?


1400円でいったい何ができるかを。


生活にひつような色々を差し引いてそこから交通費もろもろたべもののみもの、を買ったとしても、まだ新しいくつしたを買おうかまぐろの切れ端でもかって帰ろうかなんてあたたかな気分がまだ心中をぬくぬくとさせるこの1400円というありがたみと重みと尊さを!!!


あぁ


そんなこんなで今ただで新刊の読める方法を考えておるところでおる。








Ribbon in the sky ★


めばちこがおそらく治りましたニコニコ


まだ少し腫れていますが


もうほとんどわかりませんチョキ音譜


さて


今日はパソコンの調子もすこぶるよい感じですパソコン


財布の中身は寒いけど、心はぽかぽかとしていますよ。


これはすごく大事なことです。



とりあえず昨日から一週間、2月1日まで


一週間本気で本ばっかり読んでみる週間を勝手に設けました本


とりあえず最低一日一冊。昨日は3冊読んだよ。


でも結局のところ読書は量より質なんかもな。


自分の気分にあわせて、自分の心と脳みそに足りないもの、足りすぎているものを


補ったり削ったり、文字を追いながら同時にそんな作業を繰り返しながら、


感覚的に言うと、


日常という扉を開けてそこからゆっくりとそのおくのおくにある


むきだしのどこかなまなましい冷たくも温かく鋭くも柔らかい感覚にめざめる。


ということはつまり


にんげんであるということ、ヒトであり人であるわたしたちの生活そのものを感じるということ。


忘れておった感覚にまた出会ってさようならこんにちわするということであり、


堅くてカピカピとしてる膜を突き破ってその向こう側のとても静かな水のなかで意識は覚醒してるんだが


ぽちゃぽちゃ眠るということですよ。


起きながらにして夢みたいなでももっとリアルなものの中に包括されるという行為なわけで、


だからなんとなくそう感覚的ではあるが


読書の本質はこれにあるような気がするから


とにかくは文字の上をつるりふわりしてるだけじゃだめなのですそうそう感覚的に。


だから今の言葉を反芻してもらえれば


「量も重視しつつ質も重視する」ってゆうさきほどのなんかぱさついたぱさぱさした言葉も


ちょっとぬるぬるつるりんとしてきますよね。


だから一番重要なのが「本選び」ということになるんじゃなかろうかとも思うわけです。


今んとこ間違ってはいないはず。


ひとの一番奥の部分っていうのは基本的にとても静か穏やかで


よく耳を澄ませばことこと、くつくつ音がする。


これが人を人たらしめている理由、高尚な部分で、それに一番近しい場所が図書館。




暇つぶしに本を読むのではなく、本を読むために暇を削る。


本を読んでる暇がないのではなく


本を読むから暇がないのです。



そもそも私たちはなぜ本を読むんでしょうか。


そして本を読むという行為については


漫画を読むという行為よりもどこか崇高なというか


低俗的なにおいがしない、かつ文化として提唱されてきているけど


まんがはどこかサブカルチャー的な要素が強い。


昔のわたしにしてみりゃ本とまんがなんかバターとマーガリンくらいの違いなのとちがうのなんて


思っていたけどそうでもないみたい。


本はタダで貸し出してくれるけど、マンガをタダで貸してくれる機関はない。


本に絵がついただけやのに、その絵に如何ほどの価値があるのやらよぉわからんけど。


まんがの所有する文化的精神的価値の一部を削り取って商業的なものに置き換える。


そう考えたら文化的な純度で言えばまんがは、濁ってる。


でもただわからんのは


本=知的 so いんてりじぇんすの象徴

漫画=低俗・怠惰の象徴


みたいになってんのはよぉわからん。


文字に吹き出しつけてご丁寧に絵までつけてくれてんのにやで。


あたしは昔から本をよく読むけど


それはただ上記にのべたような理由であり、それが一般的に言われる本を読んでるやつはえらいんだ的理由になるとは到底思われへん。


なんで本読んでるって言ったらえらいね的なことを言われるんか子供のころからよぉわからんかった、ちなみに今も子供や。


世の中のおとうちゃんおかあちゃんがこぞって子供に、さあまんがより本を読みなさいと言い立てる理由はどこにあるのか


それはもういまだによぉわからへん。


直接聞いたらよかったな。


ただし!


ライトノベルのよさは基本的にわからん。


エンターテイメントな小説にしろ、そんなわくわくにさらにまさるわくわくなど


映像で充分享受できるので結構ですよといいたい。


文字でしか表現できない世界みたいなね


文字でしかつながれない世界


もっとも視覚というよりももっと研ぎ澄まされた感覚で


目に見える記憶見えない記憶に訴えかけてくる何か、その世界を


少なくとも感じられるものでないと私はいやなのです。


だから、こまったさんわかったさんシリーズなんかも私的にはそれはそれで、セカイなのです。


あたしは相当文学に毒されている。別にそれでもいいや



Ribbon in the sky ★



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