ハムさんから、記事「司法試験系合格の『資質』」のコメント№2に、下記のご質問をいただきました。
「私の友人で、今年受かった人が、音楽聴きながら、趣旨規範をただ読んでただけでした。しかも、勉強は週に3から4日ほど。コンスタントでもなく、気が乗らないと、一か月連続で休むことも度々。過去問は、二年分解いただけ、問題演習、答練、模試受けず、ゼミなどもしないで、基本書も百選も読まず。本番は答案構成せずに。
でも、特殊な頭の持ち主ではありません。いわゆるFラン大学出身で、一人受かれば万々歳という程度のロースクール。
戦略がいいのかわかりませんが、合格して、悠々としている彼を見ていると、私は、試験というもの、努力というものが本当にわからなくなってしまっています。この差はなんなんでしょうか。」
…「本番は答案構成せずに」「今年受かった」という事実だけで、「特殊」能力持ちだと評価できるのではないでしょうか?
記事「司法試験系合格の『資質』」に挙げた、「答案構成を全くせずにスラスラ答案を書ける」人と同じような「特殊」能力なのが気になりますね…その能力がどのように獲得されたのかが分かれば、「特殊」能力ではなく誰もが獲得できる能力にしうるのでヘ(゚∀゚*)ノ
あと私は、「頭」の良し悪しや大学・ローの「ラン」クと、司法試験系合格との間には、因果関係はないと考えています(cf.記事「試験の成績≠“頭の良し悪し”」)。
また、「試験」の合否は、他のほとんどの勝負事(ex.スポーツ、ゲーム)と同様、
1.生来の「資質」・環境等も含む、本試験当日までの人生の文字どおり“全て”によって生み出された、
2.総合的な点数・結果
で決まります。
その「試験」を受けることを決めてからの「努力」という、
その「試験」を受けることを決めてからの「努力」という、
1’.限定的な期間における
2’.1つの手段・プロセス
だけでは決まりません。
私は、こんな「試験」の厳しさ・(不)公平さ・不毛さがあるからこそ、スポーツ・ゲーム等の勝負事と同様の醍醐味・ドラマ(ex.逆転劇)が試験にもあり、“夢”の対象となりうるのだ…と確信しています!