が、私にはほぼないんだなあ…と思った。

少なくとも、学者さんの文献を100~200点も読み漁って法解釈の方法論を徹底的に研究してきた斉藤先生(→twitter)と比べると。

 

私は、学者さんの文献をそんなに読み漁る暇があったら、実際の問題で法解釈の方法論を試しながら修正→確立していった方が早いんじゃないかなあ…と思っていたし、実際そう言ったんだけど、斉藤先生にとっては、その独自の方法論に自信を持つプロセスとして必須だったみたい。

 

その斉藤先生に「4Aを世に出すとき、怖くなかったんですか?」と問われて、「全然怖くなかったよ~」と返した後に、「なぜ斉藤先生と私とで学者さんに対するスタンスがこんなに違うのだろう?」と考えてみた。

 

その理由はたぶん、学者さんにお世話になった経験・感覚の有無にあると思う。

 

 斉藤先生は、大学時代に(他分野だけど)学者さんにお世話になった経験があるみたい。

 

 それに対して私は、受験生時代から今まで、学者さんにお世話になった経験・感覚がほとんどない。

(ex)大学法学部の講義後に、文献を調べまくっても分からなかったことについて教授に質問したときに、お茶を濁された。

(ex)学者さんの基本書を通読できたことがないどころか、たいてい1~2ページでギブアップ(これは予備校本もだけど)…唯一通読できた基本書?は、元裁判官の坂井芳雄先生の『手形法小切手法の理解』(絶版のようだ…)だけ。芸術作品として鑑賞するような感じだった。

(ex)疑問点を調べる辞書的利用でも、ドンピシャの答えが書いてある学者さんの文献が見つかったことはごく少なく、しかもほぼ毎回異なる文献が最有力となるので、特定の学者さんへの思い入れはほぼない。強いて言えば、我妻大先生の『民法講義』くらいか…あらゆるケースをカバーできる場合分けをしているので、助けられた回数が比較的多い印象(それでも数回)。

 

このように、学者さんに対する期待(をするのがそもそも間違っているのかもしれないが…)を、受験生時代から修習・実務を経て講師をしている今もなお、裏切られ続けている。

だから、根本的に「こいつら使えね~」と思ってしまっているのだ(それでも手続的な正当性を得るため、徒労に終わることも見越してウラをとるという不毛な作業をせざるを得ないのだが)。

 

確かに、我妻大先生とかの偉大な先人にだいたいのことをやり尽されてしまっている中で、学問的にオリジナルな業績を残さねばならないことには、同情できなくはない。

しかし、教育的にオリジナルな業績を残す方向に行く手はないのかな~と、教育者としては常々思う。これも教育の価値を低く見ている大学等の制度的な限界があるのかもしれないが。

 

まあ、最近の学者さんは、ロースクールで受験生と触れ合っているからか、以前よりは教育的な教材を出すようになってきたけど、まだまだ受験生の立場に立てていないと思う。

ロースクールでは、

受験生が学者さんから学ぶべきこと

よりも、

学者さんが受験生から学ぶべきこと

の方が大きいのではないか。

そうだとすると、受験生は、ロースクールからお金をもらってもいいくらいだ。