NOAさんが、記事「司法試験系の論文対策とは?」のコメント№20~26あたりに触発されて、だいぶ前に送ってくれたメールを記事にしました…しばらく下書き状態のまま忘れていたのですが、過去の下書き記事を読み返していたところ、今の時期に必要有益な内容かもしれないなあと思ったので。
なお、上記のコメントをしてくれた方には、それ以降のコメントのやり取りで既に、本記事のようなメッセージをお伝えすることができたように思います。
そのため、本記事で追い打ちをかける感じになってしまうかもしれず、申し訳ありませんm(_ _ )m
これはおそらくかなり広く根深い問題で、私の言動だけで解決することは難しいと思ったので、上記のコメントをしてくれた方以外の人向けに、NOAさんからのメールを記事にして伝えることが必要・有益だと考えました。
では、始まりです。
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さっき読んだコメントのやり取りに対して思わず意見を書きたくなってしまったのですが、直接コメントするわけにもいかないので(というよりしたくないので)メールでお伝えしてしまいます。
ちなみにこの文章は中村さんのブログにそのまま載せてくれという趣旨ではありません。
中村さんの繰り返しの正論がなんだか「ぬぅ~」っとやり過ごされていくような(分かっている人はいつも分かっているんですが、「これから分からなければいけない人」に限っていつまでも分かろうとしていないような)そんな消化不良感を感じたので、こんな風な言い方をすれば伝わる可能性が出てくるのではないかとか、そんなことをつらつら考えて書いてみただけです。
もし使えそうな発想(というか発想はいつものままなので表現と言ったほうがいいかもしれません)があったら、いつか使ってください。
私自身は(下でも書いたんですが)ギター練習の比喩は1回の使用ではもったいないくらいの汎用性(普遍性)を持っていると思っています。今後も繰り返し使っていく価値のある比喩のように思います。
まあでも、基本的にはうっぷん晴らしなので、メール気分で(っていうかメールですが)気軽にお読みください。
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>「覚える」という言葉には違和感がありまして…
(※中村加筆:記事「司法試験系の論文対策とは?」のコメント№25)
この中村さんの「違和感」なんですが、これに答えるのに、先日のギターの練習の結果としての「指の皮が固くなる」という話をもっと使っていったほうがいいのではないかと思いました。
※中村加筆:司法論文対策として、“生身の自分自身を、実戦経験をくり返し積む中で鍛えるべき”ことのイメージとして私が挙げた、“ある程度の期間、ギターを弾く練習したことがある人なら、最初は弦を押さえる指の皮の痛みを経験したはずだ。しかし、練習をくり返すうちに、指の皮が厚く固くなり、痛くなくなっていく(さらに練習を積むと、無駄な力を入れずに弦を押さえられるようになって、指の皮が元に戻りつつも痛くない状態に達する)”という話@記事「司法試験系の論文対策とは?」の最後から5~6文目
当然ですが、ギターの練習における最終目的は、あくまでも「上手な演奏ができるようになること」であるはずです。
バンドマンはその最終目的を達成するために繰り返し繰り返し練習(演奏)を行っているわけです。
指が固くなるのは、上手な演奏ができるようになるために避けることのできない過程(あるいは中途段階で生じる差し当たりの結果)ではあるけれども、それはけっして目的ではない。
一言でいうと、目的は上手な演奏、指の硬化は結果、なわけです。
ここで(何度言っても伝わらない)とても大事な事実があります。
それは、中村さんも私も、それから中村さんの方法を多少なりとも実践している人なら誰でも知っていることです。
すなわち、練習を繰り返していれば、指は「誰でも」「必ず」「固くなる(ならざるを得ない)」という事実です。
これは、ほんのちょっとでもやってみさえすれば、誰でもその効果が(大した時間もかからずに)必ず確認できる事実です。
私が(中村さんとともに)違和感を持ってしまうのは、まさにそのことが事実だと知っていることにあるのだと思います。
ちょっとやってみさえすれば、誰でも必ず指が固くなるのに(な・ら・ざ・る・を・得・な・い・のに)、なぜ多くの受験生たちはいつも、指を固くしたいと望んだり、あの人たちは指が固くなっていると羨ましがったり、指は固くしなければならないんですよね…などとしきりに確認しようとしたりするのか。
指は固く「なる」のであって、けっして固く「する」ものじゃないのに、なぜある人たちはいつも、指を固く「する」ことばかり気にするのか。
それじゃまるで、机かなにかにゴリゴリと指をこすり付けて(えっっ!?)、それで指を固くしようとしてるんじゃないだろうな?(まさか…)と疑いたくなってしまいます(というかたぶんそうなんでしょうけど…)。
そういう人たちの心情を想像してみると、おそらく彼らは長い受験生活の中で、指が固くなっている「実力者」たちをたくさん見てきたのではないでしょうか。その経験から、指が固く「なる」という結果を待ち切れずに、先に固く「する」ことに憧れて(焦って)しまっているのではないでしょうか。
でも、言うまでもありませんが、その憧れ(焦り)は、本来は、実力者の(指の固さではなく)演奏の上手さにこそ向けられるべきものです。
どんなに指が固くても、下手な演奏しかできないプレイヤーはたくさんいます。それに、中村さんが書いているように、最終的にはその指の固ささえも(本当の実力者は)透明化して目に見えなくなってしまうからです。
にもかかわらず、多くの人が指の固さという物理的な「結果」ばかりに目を向けようとするのにはたぶん2つ理由があって、
(1)ひとつは、人は目に見えないもの(ex.音楽の演奏なんかは典型です)より、目に見える分かりやすい即物的なもの(ex.楽器や指先の形)に意識を持っていかれやすい生き物であること。
(2)それからもう一つは、指の固さは誰にでも簡単に判断ができるけれども、演奏の良し悪しは(残念ながら)指の固さの判別ほど簡単ではないこと、にあるのだと思います。
さらにより本質的な原因を指摘するとすれば、実は、指を固く「する」ことに気持ちが行ってしまっている人たちのほとんどは、実際には指が固く「なる」ための実践をすることを、ただひたすら面倒くさがっているだけなのです。
本当は、練習を開始しさえすれば、誰でもすぐに指は固く「なる」はずです。「なる」というのは、「する」までもなく「なる」ということであって、「する」ことを意識する必要なんて実際にはほとんどないはずなのです(さらに、そうやって「なる」ことに自然に任せていれば、自分の本当の目的は指を固くすることではなくて、演奏が上手くなることだという発想も自然に受け入れられるはずです)。
そうならないのは、本当は単にギターを弾いていない(つまりは弾くのを面倒くさがっている)だけなのでしょう(私は完全にそう信じています)。
「なる」とか「する」とか、いろいろ面倒くさいことを私も書きましたが、要するに所詮こんな問題は、「弾いてしまえば全てが解決する」問題に過ぎないのです。
しかし、これは裏を返せば「弾いてみなければいつまでも解決しない」ということでもあります。ここが本当に厄介なところです。
もう一つだけ論点を挙げてから終わりにします。
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今まで述べてきたのは『知識・論証の暗記問題』でしたが、それと同じくらい中村さんのブログでよく問題になるのが、『知識・論証の質・量問題』です。
前者は「暗記が必要か」という問題であるのに対して、後者は(前者の問題の認否にかかわらず)「それで足りるのか・点がつくのか」という問題です。
でも、これも結局さっきと同じことなんですね。
この問題もまた、自分で本当にギターを弾いてみれば解決する問題にすぎません。逆に言えば、自分でギターを弾いてみない限り、真の答え(確信)は見つからないということです。
この場合の「弾く」というのは、特に再現答案分析を一定期間徹底して行ってみる、ということです。これだけで誰もが何らかの答え(確信)に到達するはずです。
※その確信が間違っている可能性も(可能性としては)もちろんあります。しかし、そこを出発点にすることが最良の道(つまりは合格への最短ルート)であることは間違いありません。
間違っていたら直せばいいんだし、そうやって確信をもって直せるのは、自分が確信をもって選んだ道を、自分がぐうの音も出ないくらいに明白に間違えたときだけだからです。
そういうプロセス(自分でギターを弾いたことから得られた確信)を経ないで、
・こっちのブログで4Aテキストで「足りる」って書いてあったよ とか
・ある合格者さんが4Aテキストの論証で「受かる」って言ってたよ とか
そういう言葉で「安心」しようとしてしまうのは本当に良くありません。
それでは結局、また別の機会に、別の予備校講師さんや別の合格者さんなどから、
・4Aでは足りません とか
・4Aの論証では危険です とか
そんな風に言われてしまえば、結局また元の「不安」に戻ってしまうだけのことだからです。
ところが、コメント欄を見ていると、このレベルの伝聞情報で、勝手に4Aに不安を覚えたり、逆に安心を買ったりしている方々があまりにも多いと感じます。
中村さんが繰り返し繰り返し実践の重要性を説いているのに(お願いだからギターを弾いて~と懇願しているのに)、なんでこんな簡単なメッセージがいつまでも伝わらないんだろうという「暖簾に腕押し感」をいつも感じます。
私は、そういう方々の思考にはひとつの際立った特徴があると確信しています。
その思考の特徴とは、一言でいうなら「何かを信じてからしか動かない」というものです。
「信じられれば→動く」でも「信じられないうちは→動かない」
でも、これって逆なんですよね。
何かあやふやなものがあって、それが自分の五感を動員した経験によって繰り返し確認されていくうちに、やがてその何かが「信」に変わるのであって、何かを本当に信じてからその後に経験に移るなんていうのは、せいぜい宗教の啓示の話くらいしか私は知りません(ちなみに私は純粋な啓示すら信じていません。それさえ何らかの経験的な伏線が存在していると思っています)。
信じられないなら、信じられるまで(信・じ・ず・に)動かないといけません。
安心できないなら、安心できるまで(不安を原動力にして)動かないといけません。
信や安心は、動いた結果得られるものであって、だからこそ、それらには価値があるのです。
価値があるものはタダでは買えません。もちろん他人の(無責任な)アドバイスならタダで貰うことはできますが、なんでそれらがタダで貰えるのかというと、言うまでもなく、そんなものには何の価値もないからです(私は主流派経済学が大嫌いな人間ですが、このへんは本当に経済学の正しさを感じます)。
信や安心を他人からタダで貰おうとしてはダメです。
お金で買うことも実はできません。ホリエモンは愛もお金で買えると言いましたが(レトリックだとも言ってますが)、それでも世の中にはやっぱり確実にお金で買えないものがあります。
司法試験における信・安心は、まさにその典型です。
知識(どの予備校でもOK)や方法論(4A)はお金を出せば買えますが、「暗記に意識を置かないこと」や「4Aテキストで十分に足りる・評価される」ことへの信や安心は、4A基礎講座を「買って」も手に入れることはできません。100億払っても、国家予算を注ぎ込んでも、絶対に買えません。
ここに書いたことは、さすがにほとんどの方に「それはそうだろうなぁ」と思ってもらえるでしょう。
信や安心は、「あなた」自身が「何か」を差し出さなければ、絶対に手に入りません。
その「何か」は、中村さんのブログの中に、うんざりするほどたくさん書いてあります。
あとは「あなた」の問題です。