受験対策こそが、“社会に出て”から役に立ちます。

 世間では、受験対策は悪(せいぜい必要悪)だという見方が多数を占めているように思います。
 ロースクール・新司法試験制度も、そのような観点から作られた旨が語られることがあります。
 
 しかし、本当に受験対策は悪なのでしょうか?
1.お受験熱の有効活用論
 まず、受験というものは、学業における最大の興味・エネルギーを集めているといえます。
 この膨大なエネルギーを悪だと決めつけて抑制することは、非常にもったいないことではないでしょうか。
 この膨大なエネルギーを、むしろ教育資源として有効活用するという考え方は、採りえないのでしょうか。

2.真の受験対策とは?
 受験“勉強”のイメージとして、単なる知識の詰め込み・暗記というものが語られることが多いですが、それは私に言わせれば、たいていの試験において、そもそも受験“対策”の名に値しないか、せいぜい誤った受験対策にすぎません。
 確かに、調べればすぐに引き出せるような知識の量を増やすことは、この情報化“社会に出て”から役に立たないといえるでしょう。

 しかし、真の受験対策というものは、
敵を知り己を知り己に克って敵に勝つ
対策だと考えます。(『孫子の兵法』の一節をアレンジした言葉です。)
やや具体的に説明すると、
・「敵を知り」:試験問題や他の受験生の動向等を分析する
・「己を知り」:自分の現状を分析し、「敵」の戦力とのギャップを測る
・「己に克って」:自分の短所を克服し、長所をさらに伸ばす
・「敵に勝つ」:試験“本番”で「敵」に勝つことを常に想定する
ということです。

 これは、我々が“社会”を生き抜いていくために日々繰り返していることと、相似形を描くのではないでしょうか。
 そうだとすると、真の受験対策は、“社会”を生き抜いていくための戦い方を鍛えるという意味で、“社会に出て”から役に立つといえます。

 この意味で、私は、真の受験対策をサポートすることこそが、“生きる力”を育てる教育として最適ではないかと考えているくらいです。
 “社会に出て”からは、様々な要素が複雑にからまってくるので、敵の姿すら明確に見えない戦いも多いはずです。
 その準備的なシミュレーションとして、試験の点数といった明確かつ客観的で分かりやすい敵と戦うのは、非常に有効だと思います。

3.結論
 よって、“社会”における戦いの訓練として、真の受験対策をすることは、“社会に出て”から非常に役に立ちます。

4.補論
 なお、競争“社会”そのものを否定するところから受験対策を批判する考え方もありますが、教育現場にいる者の観点からは、現実に存在する競争“社会”に、教え子を全く訓練なしに放り込むのは、いかにも無責任だと思います。
 まず第一に、競争のない“社会”を作らなければ、そのような考え方は説得力を持たないでしょう。

5.あとがき
 私のこのような問題意識の起源は、小学校時代に通っていた中学受験塾の先生のおかげで、ほとんど遊びと勘違いするくらい楽しく受験対策ができた、という経験にあります。
 この経験から得られたものを広く皆さんに伝えたい!というのが、どうやら私の原点になっているようです。