理由・論証なしで言わせてもらうけど、
受験生の側から見ると、試験において必要な「理解」とは、「その試験問題において、知識を適切に使えること」とほぼ同義だと思う。
他方、
出題者・採点者の側から見ると、受験生が出題意図に沿って配点ポイントを突いていれば、その受験生は「理解」していると判断する、という感じなのではないか。
つまり、「理解」という言葉に独自の意味はない、というのが俺の考え。「学力」みたいなものでしょ。
なのに、「理解」のような空虚な言葉がはびこっているのは、
①試験において必要な能力の分析が不十分なときに、何となくの感覚を表現するのに便利な多義語だから
②出題意図や配点ポイントといった、試験に特化された概念を使いたくないから
だと思う。
②の理由で「理解」という言葉を使われると、試験軽視の姿勢が感じられて、試験というものの積極的再評価を目指している俺としては、ちょっとイラッとする。
試験というものを必要悪としか捉えないのは、試験という大きな教育資源を無駄にしているとしか思えないんだよなあ。
受験生の側から見ると、試験において必要な「理解」とは、「その試験問題において、知識を適切に使えること」とほぼ同義だと思う。
他方、
出題者・採点者の側から見ると、受験生が出題意図に沿って配点ポイントを突いていれば、その受験生は「理解」していると判断する、という感じなのではないか。
つまり、「理解」という言葉に独自の意味はない、というのが俺の考え。「学力」みたいなものでしょ。
なのに、「理解」のような空虚な言葉がはびこっているのは、
①試験において必要な能力の分析が不十分なときに、何となくの感覚を表現するのに便利な多義語だから
②出題意図や配点ポイントといった、試験に特化された概念を使いたくないから
だと思う。
②の理由で「理解」という言葉を使われると、試験軽視の姿勢が感じられて、試験というものの積極的再評価を目指している俺としては、ちょっとイラッとする。
試験というものを必要悪としか捉えないのは、試験という大きな教育資源を無駄にしているとしか思えないんだよなあ。