まず導入として、司法試験の受験勉強で使った技能のうち、修習(今のところ、前期と刑裁・家裁)で役に立ってるような気がするものについて、ちょっと書いてみたい。
・自己客観視、相対化
・経験を応用する能力
・懐疑的姿勢
・問題点発見能力
・目的の明確化
・点数計算
・優先順位づけ
・生の主張を汲み取る能力
・法的構成力≒条文知識
・条文文言重視
・趣旨から解釈
・各種文献の調査能力
・シンプルな論理を構成する力
・言葉を大切にする姿勢
・速く短く書く力
・攻めより守り重視
・無理せず自然に
そして、何よりも大切だと思うのは…
・やる気
なんだけど。
これまでの修習で、本当にやる気が出たと思うものは、少年事件、家事事件、裁判員裁判。
それ以外のものは、正直やる気があまり出ないが、それでもやらなきゃならんので、「慣れ」でどうにかこうにかルーティンワーク的にこなしているという感じ。
家裁修習に行って気づいてしまったんだけど、やはり俺は教育関係の仕事をやりたいんだなあ、と。
それでも修習にしがみついているのは、
・法律家になっても、教育的な側面を持つ仕事はできるかも、という希望的こじつけ
・教育関係の仕事は、いつでもできるだろうという甘い見通し
・「修習は貴重な経験なんだよなあ、まあそうだよね、一般的には。」という感覚
・修習での経験は、自分の人間的成長にプラスになってる気がしなくもないこと
・司法試験に合格した俺に対する周囲の期待を裏切りにくいこと
・法曹資格のブランド価値
に基づく。
受験生から見れば、贅沢言ってんじゃねーよ、となるのは重々承知しているつもりだが、そろそろ隠してきた本音を書きたくなったので。
もう自分のことだけで精一杯なので、お許しを。←いつもこうだ
まあ、こういう修習生もいるってことで。全然、人生バラ色には見えません。
正直、受験生時代のほうがバラ色だったと今は思うのだ。
過ぎたことだからこそ言えることなんだろうけど。
あと、法律家というのは、かなり重い方の仕事だと思うので、何か強めの欲望みたいなものがないとやっていけないと思うんだよね。
そこら辺、もう一度、自分の人生、法律家になることで本当に満足できるのか、受験生時代に考えてみることは何よりも重要だったんじゃないかなあ、と思う。
そういうことを大して考えもせず、大した信念や欲望みたいなものがなくても、司法試験に合格してしまうというのは、予備校や受験テク、あるいは情報化社会の弊害と言えるかもしれない。
だいぶ前に、ある大手事務所の面接で、「信念みたいなものがほしい。」「最近の受験生は、信念みたいなものがなくても受かっている人がいるから、あまり信用できない。」というようなことを言われて、そのときも俺のことをよく見ているなあと思ったが、修習の中でその本当の意味が分かってきたような。
やはり、テクも情報もあまりないまま司法試験を突破するには、相当に強い信念みたいなものが必要だったのかなあ、と思う。
今のロー生は、そういう状況なんだろうか。そろそろ発表があるそうで、色々な意味で楽しみだ。
追伸1
特にブルーになってるわけではなく、弁護士になるための就職活動をすべき時期が迫ってきた中、これからの人生どうするのかについて、自己分析整理したかっただけです。
ちなみに、裁判官志望は、
・事件との距離が比較的遠くて、欲求不満がたまること
・判決書を作品として残したい、みたいな表現欲がほぼ消滅したこと
から、少なくとも前期・刑裁・家裁修習を経た時点では、なくなっている。
検察官志望は、もともとない。なぜなら、
・いまいち仕事のイメージがつかめない
・俺には、いわゆる「正義感」がほとんどないと思われる
から。
追伸2
こんな僕でも、修習生仲間は、まじめキャラとして扱っているらしい。
ま、どうせだから色んなものを見て、色んなことをやってやろう、という前向きな自暴自棄という側面がなきにしもあらずなので、そう見えるのかも。
あと、似たような悩みを抱えた修習生が、大っぴらに口には出さないが結構いる、ということもあるかも。
・自己客観視、相対化
・経験を応用する能力
・懐疑的姿勢
・問題点発見能力
・目的の明確化
・点数計算
・優先順位づけ
・生の主張を汲み取る能力
・法的構成力≒条文知識
・条文文言重視
・趣旨から解釈
・各種文献の調査能力
・シンプルな論理を構成する力
・言葉を大切にする姿勢
・速く短く書く力
・攻めより守り重視
・無理せず自然に
そして、何よりも大切だと思うのは…
・やる気
なんだけど。
これまでの修習で、本当にやる気が出たと思うものは、少年事件、家事事件、裁判員裁判。
それ以外のものは、正直やる気があまり出ないが、それでもやらなきゃならんので、「慣れ」でどうにかこうにかルーティンワーク的にこなしているという感じ。
家裁修習に行って気づいてしまったんだけど、やはり俺は教育関係の仕事をやりたいんだなあ、と。
それでも修習にしがみついているのは、
・法律家になっても、教育的な側面を持つ仕事はできるかも、という希望的こじつけ
・教育関係の仕事は、いつでもできるだろうという甘い見通し
・「修習は貴重な経験なんだよなあ、まあそうだよね、一般的には。」という感覚
・修習での経験は、自分の人間的成長にプラスになってる気がしなくもないこと
・司法試験に合格した俺に対する周囲の期待を裏切りにくいこと
・法曹資格のブランド価値
に基づく。
受験生から見れば、贅沢言ってんじゃねーよ、となるのは重々承知しているつもりだが、そろそろ隠してきた本音を書きたくなったので。
もう自分のことだけで精一杯なので、お許しを。←いつもこうだ
まあ、こういう修習生もいるってことで。全然、人生バラ色には見えません。
正直、受験生時代のほうがバラ色だったと今は思うのだ。
過ぎたことだからこそ言えることなんだろうけど。
あと、法律家というのは、かなり重い方の仕事だと思うので、何か強めの欲望みたいなものがないとやっていけないと思うんだよね。
そこら辺、もう一度、自分の人生、法律家になることで本当に満足できるのか、受験生時代に考えてみることは何よりも重要だったんじゃないかなあ、と思う。
そういうことを大して考えもせず、大した信念や欲望みたいなものがなくても、司法試験に合格してしまうというのは、予備校や受験テク、あるいは情報化社会の弊害と言えるかもしれない。
だいぶ前に、ある大手事務所の面接で、「信念みたいなものがほしい。」「最近の受験生は、信念みたいなものがなくても受かっている人がいるから、あまり信用できない。」というようなことを言われて、そのときも俺のことをよく見ているなあと思ったが、修習の中でその本当の意味が分かってきたような。
やはり、テクも情報もあまりないまま司法試験を突破するには、相当に強い信念みたいなものが必要だったのかなあ、と思う。
今のロー生は、そういう状況なんだろうか。そろそろ発表があるそうで、色々な意味で楽しみだ。
追伸1
特にブルーになってるわけではなく、弁護士になるための就職活動をすべき時期が迫ってきた中、これからの人生どうするのかについて、自己分析整理したかっただけです。
ちなみに、裁判官志望は、
・事件との距離が比較的遠くて、欲求不満がたまること
・判決書を作品として残したい、みたいな表現欲がほぼ消滅したこと
から、少なくとも前期・刑裁・家裁修習を経た時点では、なくなっている。
検察官志望は、もともとない。なぜなら、
・いまいち仕事のイメージがつかめない
・俺には、いわゆる「正義感」がほとんどないと思われる
から。
追伸2
こんな僕でも、修習生仲間は、まじめキャラとして扱っているらしい。
ま、どうせだから色んなものを見て、色んなことをやってやろう、という前向きな自暴自棄という側面がなきにしもあらずなので、そう見えるのかも。
あと、似たような悩みを抱えた修習生が、大っぴらに口には出さないが結構いる、ということもあるかも。