先月の「さまよえるオランダ人」から「愛の妙薬」まで飛ばしてしまった。
チケット持っていてオペラに行かなかったのは、ギックリ腰でまったく動けなくて飛ばした「トリスタンとイゾルデ」以来だと思う。
そんな、久しぶりの「椿姫」。ジュゼッペ・ヴェルディ。イタリア語。
このプロダクション(演出)はとても好き。
巨大な鏡(シート)を効果的に使って、低予算でも繊細でエレガントな舞台。
衣装もクラシックのようでモード。
ラストの幕は、京都の源光庵を想起させる。
演出と衣装のどちらも、ヴァンサン・ブサールが手がける。
新国では、2015年にこの演出で新制作。初演と、17、19年とこの演出で観ていて、四年目。
主役の椿姫ことヴィオレッタは、アニタ・ハルティが来日できず、中村恵理になった。
中村恵理は歌が深いし、演技派。
とくに、「トゥーランドット」のリューは伝説になったと思っている。
大好きなので、期待して臨む。
感情の襞が細やかで情の深いヴィオレッタは彼女にピッタリだが、どれほど難しい役なのかと、椿姫を十数回観ているのに今回初めて思い知らされた。
病気の役柄なのに、声量が足りないと物足りず、作品が貧相になる。
そして、このヴィオレッタの中村恵理の声が、微妙にかすかに揺れるのだ。
例えば、指圧で、ピンポイントに施術の指が入ると効いた心地良さがある。
オペラも、聞き手のここです!に歌手の声がハマると、なんとも名作の日になる。
声が揺れるとそのポイントがわずかに微妙にズレて、気持ち悪いのだ。
それならいっそ、そんな微妙なところからもっと外れてくれるといい。さっぱりする。
これは琴線の話で、音程が外れるとか歌が下手ということではない。世の中でメインを張っている歌手以外はほとんどが外れていて、おっ!と思った歌手は気づくとスターダムにのぼっている。
もともとの中村恵理に力量があるからこそ、その役柄の難しさに気づいてしまったのだ。
前半ではちょっとしたモヤモヤが残ったが、後半、彼女はきちんと修正してきた。
パシっとツボに入る。揺れない。すごい。
この修正力は驚きで、神がかりの舞台になった。
一幕半歌ってエンジンがかかり声量も上がり、安定し、出来栄えに唸るばかり。素晴らしい歌手だと改めて思う。
ヴィオレッタに恋するアルフレードは初来日のマッテオ・デソーレ。イタリアのサッサリ出身。
苦労知らずのお坊ちゃまを、高らかに真っ直ぐ歌い上げる。
上手い。けれど、知り合いなら、
「なんだよ。声張ってるだけじゃん」と、言いそう。
と、思っていたら。
ヴィオレッタを失って自暴自棄になり、自らの能天気さを自虐してからのアルフレードの心を切々と歌う後半に、心を奪われた。
やるじゃん!あの、あっかるい好青年は、後半の成長後への布石だったのか。落差がありすぎて笑った。
もっとこの人の歌を、別の演目で聴いてみたいと思った。
二人を別れさせるアルフレードの父ジェルモンは、ゲジム・ミシュケタ。
アルバニア出身で初来日。
もうちょっと苦悩が出てきたら良かったとか細かい私の好みはあるけど、威厳があって良かった。
指揮は、アンドリー・ユルケヴィチ。演奏は、東京交響楽団。
このマエストロは、「ヴィオレッタの心境に寄り添い、捧げる」と決めたのか、丁寧に手綱を引き気味に、終始繊細な心配りの演奏で見事だった。
都響もその見事な手綱捌きに合わせて、緊張感を持ちながら美しい音を紡いでいく。
もっと上手くて感動的な舞台や演奏はあるが、観客席と一体化して独特の空気をはらんだ、生涯でそれほど出会えない名演奏の日で、見事。何度も涙ぐんだ。
マエストロはウクライナ出身。
日本での隔離期間、そして、リハーサルの時間を逆算すると、来日と同じくらいの時期に戦争になったのだと思う。
家族と連絡を取りながら日本で仕事をするこの毎日は、どれほど心細いものだろうか。
一度、「オネーギン」で演奏を聴いている。
でも、今回は丁寧な音作りに、祈りのような命をかけた何かが伝わってきた気がした。
そう感じた時は、私は、彼がウクライナ人であることをすっかり忘れていたので(途中で気づいた)、掛け値なし先入観なく素晴らしかったのだ。
カーテンコールが止まらず、マエストロは何度も指先で涙を拭っていた。
上階の観客は、ウクライナの国旗を振っていたと聞く。
多くの観客の服装も、ウクライナカラーだった。
パンフレットから。
音楽や芸術を楽しめるのも平和あってこそ。
マエストロが帰国しても、タクトが銃に持ち替えられないことを祈る。
もうこれ以上、命が失われることがありませんように。
公演は、あと、16日、19日、21日。
ぜひ、目に焼き付けてほしいと思う。
私も、もう一度観るかどうか迷っているところ。