光太夫の初紅茶!
今日は、いっぱいあるよ!
計量記念日、灯台記念日、自衛隊記念日、古典の日、点字の日、生命保険の日、犬の日、寿司の日、紅茶の日、本格焼酎の日、泡盛の日、家具の日に教育の日です。
いっぱいありますが、ちょっと異色な紅茶の日に焦点を当ててみましょう!
【活用場面】
紅茶を飲む時の蘊蓄の一つに!
紅茶の日の由来は、暴風雨のためロシアに漂着していた大黒屋光太夫がロシア皇帝エカチェリーナ2世の茶会に招かれ、日本人で初めて紅茶を飲んだ日に合わせて、本紅茶協会が制定したそうです。
井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」などで知られる大黒屋光太夫ら総勢18名を乗せた神昌丸は1783年1月11日に伊勢の白子の港を出港しました。
光太夫は、伊勢の南若松村(現鈴鹿市)生まれの船頭で、若い頃は江戸で仕事をしていましたが、この頃は故郷に戻って伊勢を本拠地に廻船の仕事をしていました。神昌丸は一見勘右衛門という人が所有する船で江戸に送る米や木綿などを積んでいました。ところが彼らの船は4日後の13日、駿河の沖で突然の嵐にあい遭難、帆柱も折れ、櫨も失って操縦不能になってしまい、この状態のまま半年以上も漂流することになったのでした。
やがて彼らが漂着したのは北の果てアリューシャン列島のアムチトカ島でした。1783年の7月15日のことです。この寒さ厳しい島で8人の仲間が亡くなりました。
4年後、この島にラッコの皮を取りに来たロシア人が彼らに遭遇し、そのロシア人が一行をカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行ってくれました。ここで光太夫らは日本に帰りたいので助けて欲しいと当地の役人に願い出ますが、当時日本は鎖国中。ロシアとしても単純に連れて行く
訳にはいかず、願いは不許可となります。このニジニカムチャッカでも3人の仲間が亡くなっています。
残った6人は、翌1788年帰国の件をシベリア総督に直接願い出ようと、シベリアの中心都市イルクーツクへ移動しました。この移動にはソリで8ヶ月を要し、一行は1789年2月バイカル湖のほとりイルクーツクにたどりつきます。しかしシベリア総督の返事は色好いものではありませんでした。
失意の彼らに救いの手を伸べたのはフィンランド出身のキリル・ラクスマンという植物学者でした。彼はシベリアの植物の研究で名を上げておりロシアの科学アカデミーの会員にも名を連ねていました。彼はイルクーツクで光太夫たちと知り合って同情し、自分と一緒に首都ペテルブルグまで行って皇帝から直接帰国の許可と支援を願い出ようと誘います。
1791年一行を代表して光太夫がラクスマンとともに速ソリでペテルブルグまで行きました。カムチャッカからイルクーツクまでは4000kmでこれに8ヶ月もかかっているのにラクスマンが使ったソリは6000kmをわずか2ヶ月で横断しています。
ペテルブルクでラクスマンと光太夫は皇帝エカチェリーナ2世に2度も謁見することに成功。エカチェリーナ2世は彼らに同情すると共に、これを機会にかねてから考えていた日本との交易を実現したいと考え、ラクスマンの息子のアダム・ラクスマン陸軍中尉に遣日使節の命を与え、光太夫らと共に日本に行くよう命じたとのことです。
この時の謁見で紅茶を飲んだらしいのです。
苦労の末口にした紅茶の味は如何ほどだったのでしょうか?因みに、美味しい紅茶の入れ方ならアンガールズが詳しかったのには意外でした![]()