持ち帰れなかった甲子園の土! | 朝礼スピーチのねた ブクロ

持ち帰れなかった甲子園の土!

今日は、高校野球に米にビーフンの日です。

【活動場面】
 華々しい舞台裏を知る!

高校球児にとっての甲子園という場所は、チームの数だけ、それぞれのドラマがあります。

1972年5月15日 第二次世界大戦後、アメリカ軍に統治されていた沖縄が日本に復帰しました。それまでには悲しいドラマがありました。

当時の沖縄は、テレビの普及がなされていなかったことから、夏の決勝戦だけがラジオで流れ 、ベースボールマガジンが輸入されていた時代です。プロ野球や東京六大学野球の情報が主で、海外 ...沖縄の高校球児にとって、今日のような甲子園へ想いとは掛け離れた場所だったのです。

1958年夏、沖縄大会。決勝を戦ったのは石川高校と首里高校。第40回全国高校野球選手権記念大会へ優勝した首里高校が招待されることになりました。

当時の沖縄高校野球が全国のレベルに遠く、首里高校は初戦の敦賀高校(福井)戦で13三振を奪われ0-3の3安打完封負け。甲子園の大観衆から「また来いよ」と、惜しみない拍手と暖かい歓声が掛けられました。

首里高校の甲子園出場は、沖縄と本土の掛け橋となり、今日活躍する沖縄球児が甲子園を目指す原点となりました。

また、海外...沖縄にとって、この首里高校甲子園出場でもうひとつのドラマがありました。

沖縄の人々が本土へ渡るにはパスポートがいる当時のアメリカ領沖縄。首里高校球児は、本土の祖国への思いを胸に甲子園の土を拾い持ち帰ろうとしていました。首里球児が甲子園から沖縄へ帰った際、那覇港 へ上陸する直前に今では考えられない心の痛む出来事が起きました。

彼らが集めた甲子園の土は「植物検疫法」に引っかかるという理由で検疫官の手で海中に捨てられてしまったのです。

この時の首里高校ナインの心情を思うと胸いっぱいになってしまいました。 ただ、この土を海に捨てなければいけなかった検疫官の気持ちも思うと、沖縄の方々が歩んでこられた歴史には私たちには計り知れないものがあったのだと胸が痛みます。

この痛たましい出来事は、新聞で全国に知れ渡り、心を痛めた1人の女性、日本航空のスチュワーデス 近藤 充子さんが土がだめなら甲子園の石を・・・と首里高校ナ インの元へ温かい心が届けられました。

その石は、甲子園のダイアモンドに形を変え記念碑に埋め込まれ、今でも首里高校で友愛を繋いでます。