力道山と錆びたナイフ!
今日は、明治天皇祭にプロレス記念日です。
【活用場面】
一人の英雄は必要ない、組織で成果を出す!
力道山が日本プロレス協会を設立したことに因み、プロレス記念日だそうです。
力道山は、本名を金信格(キム・シンキョ)といい1924年11月に朝鮮の咸鏡南道で出生しました。1939年の「創氏改名」で、名前を金村光浩にかえ、1940年に二所ノ関部屋に入門し敗戦の年の1945年には十両に昇進しています。
1950年、関脇に昇進した力道山は突然力士を廃業しました。真相は定かではないが、朝鮮人であるため大関になれない不満、番付面での不満からだと言われています。
その後、プロレス界入りした力道山は1954年に柔道7段の木村政彦と組み、米国の強豪レスラー・シャープ兄弟とタッグマッチを行います。敗戦から9年を経て、ようやく日本の経済復興の兆しが見えてきたものの、今だ米国コンプレックスが根底にある日本人の目には、力道山が対等、若しくはそれ以上の強さで米国人レスラーに空手チョップをくりだす姿に興奮しました。
おりしも、この年にNHKと日本テレビがテレビ放送を開始し、駅前の街頭テレビに映し出されるプロレス実況は、国民を完全に虜にしてしまいました。一躍国民の大スターとなった力道山は同年12月、木村との「世紀の遺恨試合」を経て覆面王・デストロイヤーや噛みつき魔・ブラッシーなどの強豪レスラーと対戦し連戦連勝を誇りました。
一方、力道山は本業のプロレス以外に総合レジャー施設やクラブ、マンションなどの多角経営に乗り出し「リキ・コンツェルン」を築きます。さらに、1963年6月には、日航の国際線スチュワーデスの田中敬子さん(21)とホテル・オークラで盛大な結婚式を挙げて、この世で欲しいものは全て手中にしましたが、その結婚式から僅か半年後に力道山は他界してしまいます。
英雄・力道山の死は国民に驚きと深い悲しみを与えました。圧倒的な強さを誇った力道山が、錆びついた登山ナイフの一突きで死ぬなんて誰も信じることができなかったのです。最後の言葉は「おれは死にたくない」だったそうです。