老舗駅弁の誇り!
今日は、盆送り火、駅弁の日に海の日です。
【活用場面】
あきらめない心!
駅弁を作るメーカーは、今、減り続けているようです。
昭和30年代の最盛期には500社近くもあったそうですが、現在は120社に満たないと言われています。
理由は、「窓の開かない列車」が増え、昔ながらの立ち売りが減ってしまい、大手の車内販売がメインとなっていることのほか、国鉄の民営化で路線の再編が進んだこと、さらに列車の高速化で、車内でゆっくりお弁当を…という「風景」が失われていることも挙げられます。
そこで老舗の駅弁屋さんでも、「苦しい状況」に追い込まれるところが多くあります。創業100年にあと2年の老舗、『福廼家(ふくのや)総合食品』も、その1つでした。
兵庫県の姫路から、70キロ近く内陸に入った播但線(ばんたんせん)の終点、和田山駅で駅弁を作り続けてきた会社です。和田山は、「生野(いくの)銀山」を始め、日本有数の銀山・銅山を付近に抱え、1950年代には、県内の生糸生産の中心地として栄えた土地です。
『福廼家』も最盛期には、十数人の売り子さんが総出で駅に立ちましたが…それでもまだ足りないというほどの売り上げだったといいます。
しかし70年代に入ると銀山や銅山は相次いで閉山となり、生糸工場も移転します。和田山がかつての賑わいを失うとともに、駅弁の『福廼家』も経営が厳しくなっていくのです。そんな衰退の一途をたどっていた1985年、現在の4代目社長・福井好二(こうじ)さんは、父親から、「跡継ぎ」になることを言い渡されます。
まだ大学生でした。
その時こう思ったそうです、「これで、人生終わりや」。
でも決して「人生終わり」では、ありませんでした。
福井さんは、今のままではダメになっていくばかり、何かを大きく変えなければ…そう考えました。
100年続こう、という老舗、味には絶対の自信があります。でも、手に取ってもらわなければ、
その味を知ってもらうことができません。
どうしていいのか?考えあぐね、やっぱりダメか…そう諦め半分でぼんやりと近所の川沿いを歩いていたときのことです。川面に野鳥の「鴨」が遊んでいました。
ここで、ひらめきました!
名前だ!弁当の名前を大きく変えよう!そう思ったといいます。そして鴨肉弁当の名前を…
「カモON!かもかもランチ」にしたのです。
何度もいいますが…100年は続こう、という老舗です。
この名前に周囲は猛反対をしました。しかし福井さんは押し切ります。そして販売がスタートすると…予想以上の反響となって、各方面から引き合いがきます。
しかし、好事魔多し。思いもかけない「事件」が起きます。東京の上野公園で弓矢の刺さったカモがつかった「矢ガモ事件」です。こんな時期にカモを揶揄する名前はどうか?と、愛護団体からの忠告が入って、急遽、販売を中止せざるを得なくなったのです。
しかし、福井さんは諦めませんでした。
ミニステーキを載せた弁当、「モ~牛牛(ギュウギュウ)づめ」を販売します。容器を開けると光センサーが反応して、牛の鳴き声が聴こえる仕掛けにしました。
これが百貨店の催事で大人気となり、『福廼家』の名前とその「味」は、一気に全国区になっていきました。
これと同時に行ったのが、会社の改革です。
親の代まで続いた仕入れ業者との「馴れ合い」を解消するため、契約を全部「白紙」に戻して、駅弁だけでなく、仕出し弁当の販売にも力を入れていきます。
そしてこうした努力が実を結び、『福廼家』は復活の兆しをつかみます。傾きかけていた家業を立て直す「術(すべ)」を手に入れることができたのです。ところが…ここまできた
ところで、4代目社長の福井さんは、またまた思い切ったことをします。
人気となっていた「面白いネーミング」をすべて捨てて、一般的な名前に駅弁を戻したのです。
今の主力は、「地釜炊き・釜めし弁当」と「但馬の里・和牛弁当」。その理由について福井さんはいいます。
「駅弁屋ですから、面白いではなく、おいしいと言われたい」。
やり方はその時々に合わせて大きく変えるが、軸となることは絶対に変えない…創業100年のプライドを胸に、福井さんの挑戦は、これからも続きます。