可能について。


1.昨夜は花火が見られてよかったね
2.昨夜は花火が見れてよかったね


我が国では、2の用法を、「ら抜き」言葉と言って、

誤用とする論が多数派です。


ただ、とあるデータによると、日本人の6割近くが、

生まれながらに「ら抜き」を使っているのだとか・・・


これは、地域差も大きいようです。


ちなみに、私は、「ら入れ」の生まれですから、

「ら抜き」が誤用と言われて、問題なく受け入れましたし、

「ら抜き」を使う人は、単に面倒くさがり・横着な人種なんだと思っていました。


おそらくは、東京方言が「ら入れ」だったため、それが「標準」とされ、

「ら抜き」は誤用とされたのだと思います。


しかし、「ら抜き」の人たちにとって、

勝手に誤用とされるのは理不尽極まりない話です。


言葉というのは、それ自身、優劣はないし、

当然それらを使う人間にも序列はないはずです。


為政者かあるいはそちら寄りの者が、勝手に基準を作って、

それに反するものを排除しようとするのは、ファシズムじゃないか!



「ら抜き」の人に言わせれば、

可能と受身が明確に区別できるから、「ら抜き」のほうが合理的だとの主張もあります。


A.着替えを見られる。

B.着替えを見れる。


下世話な例で恐縮ですが、

Aですと、受身なのか可能なのか、紛らわしい。

(もしかしたら、尊敬かもしれない[笑])


Bですと、可能しか意味がありませんから、

間違えようがありません。

助動詞ですね。


受身・自発・尊敬・可能の4つの意味があるとされています。


自発
「昔のことが思い出される」


受身
「うちのエースピッチャーが打たれた」


尊敬
「先生が書かれている内容は~」


可能
「昨夜は花火が見られてよかったね」
「昨夜は花火が見れてよかったね」


自発と受身は、用法に大きな問題があるわけでもなく、
理解はしやすいと言えます。


問題は、尊敬と受身。


まず、尊敬については、例えば前述の例ですと、
受身と間違える可能性がある。


つまり、「先生が(題材として)書かれている(取り上げられている)内容」とも
読めないこともない。


紛らわしい。


こういう場合は、
「先生がお書きになっている内容」とすれば、
これは意味の取り違いはほとんどないでしょう。


ちなみに、学生時代、とある教授は、同じことを指摘し、
そういう場合は、「書いておられる」とするのだ・・・
とおっしゃった。


ただ、「おられる」というのは、
謙譲語の「居る」と尊敬の助動詞「られる」が合体したもので
厳密に言えば、正しくない使い方です。


しかしながら、言葉は生きていますので、
この尊敬の「おられる」は、間違いという指摘もあまり多くなく
今では市民権を得たというような感があります。


謙譲語+尊敬の助動詞は厄介ですね。


先日挙げた「あちらで拝見してください」というのを
「あちらで拝見されてください」とすると、
なんとなく正しい感じがしてしまう。


これは、「拝見」が謙譲語だという意識が薄れているからかもしれません。


可能については、次回。

敬語は難しい・・・


日本語が難解だという理由の一つは、敬語の存在でしょう。


敬語と一口に言っても、丁寧語、尊敬語、謙譲語という分類がある。

(もっと細かい分類もあるそうです)


丁寧語はともかく、尊敬語と謙譲語、この区別は非常に難しい。


「あの書類、拝見しましたか?」

「あちらの窓口で、伺ってください。」


尊敬語のつもりで謙譲語を使っている。


最近気になるのが、二重敬語。


「おっしゃられる」

「召し上がられる」


「おっしゃる」「召し上がる」はそれだけで尊敬語なのに、

さらに「られる」という尊敬の語尾をつけています。


ただ、言葉というのは、使い古されると、「格」が落ちるのですね。


たとえば、「貴様」という言葉。

今では、喧嘩のときか、軍歌ぐらいしか聞きませんけど、

これは字面だけを見れば、非常に相手を敬った言葉です。


事実、昔はそういう使われ方をされていましたが、

いつのころからか、その言葉自体の「格」が落ちてしまったのです。


「おっしゃられる」「召し上がられる」は、今でこそ、違和感を覚えますけど、

近いうちに「おっしゃる」「召し上がる」も「格」が落ちて、

「られる」をつけるのが普通になるかもしれません。


とあるメルマガを読んでいたら、「耳障りのいい言葉」という文言がありました。


おいおい!


百歩譲って、そういう使い方を認めるならば、

「耳触りのいい言葉」と書かねば、おかしいでしょ?


「障る」と「触る」。

どちらも「さわる」と読みます。


でも、意味は全然違います。


そもそも「障る」については、

「その音楽は耳障りだ!」とかいう風に使います。


そのほか、「お前の存在が目障りなんだよ~」などと使います。

また、「さしさわりがある」=「差し障りがある」です。


「障害」という言葉にも表れるように、なんらかの不都合がある場合の言葉。


一方、「触る」については、

「肌触り」とか「舌触り」とか、何かがくっついた感じがあるときに使うものです。


さて、耳ざわりですけど、

耳に心地よく響く言葉などを称して、「耳触りのいい言葉」とする。

これを、別の言い方をするならば、「耳通りのいい言葉」なんでしょうが、

あんまり聞きませんね。


言葉は生きていますから、もともとが誤用であっても、多くの人が使っていれば、

それが正しいとされます。


だから、別段、目くじらを立てることもないかなと。


でも、このデンでいくと、

「その洋服は、目触りがいいね~」なんて用法も出てくるのかな?


逆に、

「この果物は、舌障りがする」とか

「この下着は肌障りがしていやだ!」なんて使い方もされるようになるのでしょうか?


いずれにしても、少なくとも、漢字は間違えないでほしいものだと思います。

日本語が乱れている!と言われて久しいですね。


ただ、「乱れ」というからには、正しいものが有ってのもの。

じゃあ、「正しい日本語」というものが存在するのか?

あるいは、何を持って「正しい」とするのか?


亡くなった作家の井上ひさしさんなどは、「古典をひもとけ」と言っています。


確かに、「昔の用法=もともとの使い方」とすれば、

それを基準に、「正しい」「乱れだ」と言えるのかなとも思えます。


でも、言葉は生きています。


間違った使い方であっても、多くの方がそれを使えば

「正しい用法」になってしまいます。


言葉を論じるとき、必ずしも杓子定規にはいかない・・・というのが実際のところです。