先週末、元安芸高田市長の石丸進二さんの東京都知事の選挙演説を

聞きに行ってきた。

安芸高田市には、なんの縁もゆかりもないが、勝手に彼に親近感を持っている。

動画で見ただけだが、安芸高田市の田舎具合、山間の家がポツポツと建つ

のどかな人、のどかな町。名物もない、産業もない、変化を嫌う人々

先が見えても、見えないふりをして、とにかく過去と現状にこだわる。

そんな所が、私の故郷に似ている。

日本が元気だった時代は、そうしてても地方経済も回ったが、

もうそんな時代はとうに過ぎている。彼の様に「このままじゃダメだ!」と

声を上げるべきなのは、みんな分かっているが、田舎ではそれは言えない。

座して死を待つのみ そんな印象だ。

 

彼の経歴やキャリアも私に似ている。

海外を経験すると、日本の停滞感は物凄く感じる。

1年、2年に一度日本に戻ると「え?まだこんな事やってるの?」とか

「年寄りの多さ」、「物価の安さ」に驚かされる。

 

世界が激流ならば、日本は水たまりのような感じだ。

流れもなく、ただ一か所に溜まっている水。

流れがないから、いつ来ても、いつ見ても同じ風景。

何も変化がない。もちろん、変わらないことも素晴らしい。

例えば、レストランで毎日同じ味を出すのは大変だと思う。

だって、レシピは変わらなくても、材料だったりは、少しずつ

変わっているわけで、そんな中変わらないものを提供するのは

大変だ。そういう意味で、日本人の環境変化に対する耐性は

凄い物がある気がする。前に進む力でなく、変えさせられる力を

押し返して現状維持しようとする力が半端ないのだ。

いずれ流れのない水は濁り、異臭を放ち、蒸発してしまう。

 

彼は「議会」に対して「僕をやりこめているつもりかもしれませんが

僕はこの街に固執していません。なぜなら、僕はここでなくても

都市部で生きていくことが出来るからです。困るのはここから出られない

人(年寄りと経済的弱者)ですよ」とはっきり言っている。

それは、究極の「愛情」だと思う。

だって、そんな町が潰れようと、自分の人生に何の影響もなく

他所で生きていく能力があるのに、見捨てずに必死に手を差し伸べてるのだから。

カンダタの様に上から垂れてきた一本の糸を切って、地獄で生き続けるのか、

糸を登り切って極楽浄土へ行くのか、安芸高田市長選挙も見物だ。

 

海外で生活すると、自分のルーツを意識する。

「日本人だから」「日本人ならば」「日本人だったら」これらは、

自分で意識しなくても、外からそういう「圧力」がかかるのだ。

そうこうしているうちに、自然とそれを無意識に意識して生活するようになる。

例えば「日本人だから(信用できるから)いいよ」

「日本人だから(そんな犯罪的な事)やるわけない」、

「日本人だったら●●するだろう(良い意味)」こういうフレーズを良く言われる。

無意識にそのイメージを演じてしまう自分がいた。

そのうち、「日本人」や「日本」を強烈に意識するようになった。

日本に居たら、「日本」とか「日本人」なんてキーワード使う時がない。

で、数年に一度戻る日本の滞在先と言うと、オフィスのある都市部と

実家の田舎2か所だけで、そこがある意味私の「日本」であり、強烈に

意識するようになった所以だ。

 

東京は暮らしやすい街だと思う。本当に。

何も不自由がない。子育ても今のところ何も不自由ない。

インフラも整い、公共交通も整い、補助も手厚い。

なぜそれが出来るのか?それは「数」があるから。

人口と企業が一極集中してるから、お金が潤沢にあるのだ。

都知事は誰がやっても、及第点になる。

お金と言う水が湧く水源地がある街なのだ。

そのお金を生み出すのは、「人」であり、「企業」の数なのだ。

水源のない他の町は水が干上がり、今にも死にかけている。

だから、その水を地方にも流そうという発想だろう。

 

相続放棄は決して田舎を棄てることではない。

田舎を思えばこそ、自分に出来る精一杯の選択肢の一つなのだ。

 

無責任ながら、石丸伸二さんに、故郷を憂う一個人として

一縷の望みを託し、演説を聞いて来た。