常識だとか非常識だとか
時代、国、年代、環境にも色々左右されるところがあって

それこそ育ってきた環境で培われた常識や、

同じ親元に育っていても全てにおいて環境が同じでないからなのか(学校や友人とか)

いわゆる常識も非常識も価値観によるところも大きい…

その価値観とは、
正しいか正しくないかは別として

つきつめたらその人の美学なんじゃないだろうか? …美学も美についての価値観なのだけど。。

常識なのか非常識なのかで、揉める時って

普通さ!とか
ほとんどの人の価値観が
同じであるように言いがちだけど、

現に、辞書を引けば常識について、一般の社会人として,だれもが共通してもっている知識や分別…
とある。


この、誰もが…が曲者で
時代とともに、常識までもが簡単に覆る世の中。

いい国作ろう鎌倉幕府で覚えたはずの鎌倉幕府の成立年1192年が、研究の末、

いい箱作ろう鎌倉幕府…で1185年が常識となったというのですから

もはや常識を語るのも気を付けないと非常識に。。。

で、改めて、美学も価値観のひとつなんだけど

まぁ、美学というほどの意識はないかもしれないけど

要するに好むか好まないか…程度には人は反応すると思うのですが

口下手な人の言葉に傷付いた…としても

傷付いた本人は相手に傷付けられたわけではなく

ただ、相手の持つ美学と、自分の美学が違うだけ。

現代アートが好きな人もいれば古典アートが好きな人もいる。

どちらも芸術として認められたものだけれど
当然好き嫌いはある。

で、その美学の違いは
究極、現代アートと古典アートのどちらが優れているか?みたいな、答えの出ないことに論争を繰り広げているだけかもしれない。

究極、、共感してほしいとか認められたいというのが根底にあるのかもしれない。

同じ気持ちで安心したいのかもしれない。

同じでなくてもいいのに

相手の出方が自分の想像を越えた発言や行動をした時、

なんで!?普通はさ、!
と、反論したり、いかにも自分が正しいかのように言ってしまう。

だけれど最近思うのは

なぜそのような美学を持ったのか?

なぜそれが否定されたかのように悲しくなるのか?

相手には相手の美学があるだけなのに、

相手もあたかも自分が正しい、そっちが間違いだ!

みたいな態度にくると
たいていその事に囚われて、悲しんだり怒ったり。

けれど、その先を見ると なぜその美学を持ち出すのか、なぜその美学を正しいとか常識にあてはめてまで主張したいのか?
そこには、親が植え付けた言葉だったり過去の何かしらのトラウマが隠れているのかもしれないし
認められなかった過去の思いが顕になって再現されているのかもしれない。

もう、その思いは手放してもいいよ…と。

それは、ある意味今まで自分を守ってきたかもしれないけれど…。

そのそれぞれの美学に潜む過去の思いに、
振り回されるている自分がいるから反応してしまう…ような気がするのです。

前回のブログのメッセージで記したこの部分、

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悩みがあるとき、それは
曇ったレンズの眼鏡をかけて世界を見ています。

その眼鏡で見ていた世界はあるときまでは自身を守ってきたことでしょう。

しかし、自身の行動や考えを制限してもいたのです。

もう、その慣れ親しんだ習慣を変えるべき時がきました。

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それは、こうした事も含むメッセージなんだと思います。

価値観の違い、といえば
そうなのだけど

価値観が合わないというのはもはや問題ではなくて

自分の美学に固執すると
世界が見えなくなる…

その反応を変える時がきた…のです。

皆違っていていい…と
口にするのは簡単なことだけれど、日常些細なところでこの違いを無意識に受け付けられずにいることって意外にあると思います。

その反応を変えるには
なぜその美学を持ったのか?

なぜそれに固執してしまうのか?

を、深く見つめていくと単に、相手が間違ってるとか、受け入れてくれない、認めてくれない、共感してくれないとか相手ありきの事から

違う側面が見えてくるような気がします。

美学についてネットで色々見ていたら

森瑶子さんの、
非常識の美学という本に出会いました。

なかなか興味深い本で
すらすらと読める本ですのでお勧めです。

自分がこだわる美学にも
陰陽それぞれの側面があるということかなと感じています。

嫌いは好きの始まり、なんていうタイトルのエッセイがあったり

我がままの美学というページもあります。

逃がした魚は大きかった、というタイトルのページには

恋愛と結婚は別、と考える友人が遊ぶには楽しいが出世コースから外れた元カレと別れて、将来出世しそうな見合い相手と結婚するも

一緒になってみると
夫は無趣味で退屈な人だった。

そんなある日、風の噂で元カレが結婚し海外で暮らし、牧場を買い、
つつましく人生のスタートを切ったという話を耳にした友人が

自分が失ってしまったものの大きさに呆然とした。

しかし著者の森瑶子さんが、最後に締めくくった言葉は、 なるほどね、と思う的を射る言葉でした。

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もし、昔のボーイフレンドと結婚したとしても
あなたは彼のオーストラリア移住計画に対して
顔色を変えて反対していたと思うのよ。

そんな、海のものとも
山のものともつかない無謀な人生計画なんて
とんでもないわ、と。

あなたは、安定した生活の保障だけを求めていた、そしてそれを手に入れた。

安定ということが
退屈と同義語だということは、

知らなかったみたいだけど。

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ある意味、友人の結婚に対する美学により元カレとは御別れしたのだろうけれど

安定と退屈のワンセットを考えたら

その美学に固執する前に もう一つの側面があることも忘れてはいけない。

結局、価値観の違いは
もう一つの側面があることを忘れて自己主張をお互いにしている…のかもしれないなぁ~と考えさせられるこの頃です。

価値観の違いがあることに反応するときは、

自分がこだわる美学にももう一つの側面があることを忘れているとき

そしてその反応は
癒すべき側面があることを教えてくれている

そう考えることによって
答えの出ない論争の世界が、

違う世界として見えてくるような気がします。