目もいいけど唇もよいゴリポン
いや全部よいから~
久しぶりに綺麗なナムジャだった事をかみしめております。
さて約1ヶ月ぶりに我が家で一人の時間をむかえています。
実は先日父が旅立ちました。
11月の連休初日に電話がかかってきて
頭の整理もつかないまま兄と実家に向かいました。
新幹線の中でなぜか兄に無理やり🍺飲まされ、
こういう事っていつならって時はないんだね~なんて話しながら
すこしずつ覚悟をしたように思います。
地元に到着したのは22時。
迎えに来てくれた長兄が私たちの荷物をみて
「えっ?喪服持ってきたの?!」と。
言われた私達も「え?!」
どういうこっちゃーいと!
もう今日明日にでもって感じだったのに
すっとんで来なくてもよかったんかーい!
まぁ肩すかし位でよかったんじゃないなんて言いながら
取り敢えず自宅に戻り翌日病院へ。
元々人にわいわい言われたい性分の父ですので
私たちの姿を見てよく来てくれたみたいな事を……いったかな?←え?
もう忘れちゃったわw
父は超が100個位付く程、
ザ昭和の親父でして
ありがとうを言えない、人の意見を聞かない、間違いを認めない、自分勝手な父でした。
なので私達兄弟の記憶にある父との思い出は
楽しいものよりいつも怒られてた記憶が圧倒的です。
それでも小さい頃には、仕事で忙しいながらも釣りにはよく行ったかな。
あと新聞が大好きで
病院で具合が悪くても
新聞持ってきたよって声かけるとピタッと治まって
みんなで特効薬より新聞だと笑ってました。
父は昔から読んだ新聞を捨てずに保管していましたので
私が物心ついた頃から父の寝床は新聞紙で囲まれていて
母はいつもうんざりしながら、こそっと古いものを捨てていました。←えっ
そうそう、まだ父が元気だった頃、
母が棺桶を新聞紙で作れないものかと言い出して
それはいいねとみんなで業者を探した事がありました。
本当にそんな棺で見送ってあげれたら
父も喜んだろうなと思います。
お医者さんからはどちらに転ぶかわからないと言われた3日間
残された時間を贈り物だと思って大切にと言われた1週間。
最後は母と、下の兄をのぞいた姉兄で見送りました。
最後の3時間はもう呼びかけても反応は無かったけど、
耳だけは聞こえていますよと看護婦さんに教えてもらったので
みんなで馬鹿話をして、父に触れて、話しかけて、
最後も呼んだら戻ってきて、
おっ!てみんなで笑ったけど、
やっぱり安らかにいってしまいました。
わがままで寂しがり屋の父は、
病室に一人でいるのが嫌で付き添いをねだりまして、結局一番動ける私が長く父との時間を過ごせたわけで
最後に話したのも私だったかと思うと、
母や姉兄に、
そして一番父に申し訳なく思うところもあり
でもまぁ色んな事を思っても、
もう仕方ありません。
それでも病室にいたとき
看護婦さんから私の事を尋ねられた父が
「これはなかなか面白いやつです」と笑いながら話していたので
末っ子の私は自分の役割を果たしてこれたのかもしれないと思っておくことにします。
そして悲しみにくれてる暇はない事を本当に実感した数週間、
お式の後もとても忙しかったです。
外の事もそうですが、家の事も色々ありました。
先ずはずっと母の隣に敷きっぱなしになっていた父のベッドを片づける事でした。
そしたら母がその周りにあった父が大切にしていた新聞の切り抜きを捨てはじめて。
そんなに慌てなくてもいいんじゃない?って思ったのですが
母曰く生前から父が亡くなったら捨てると宣言していたそうです。
で、その時父の言った言葉は
「化けて出る!」www
でも出てきませんでした。
そしてお式で使った小さな父の写真があるのですが、
どこに置こうかと悩んだ結果
なんとトースターの上に置いた母。
おいおい、焼けちゃうんじゃない?との突っ込みも気にせず満足そうです。
20歳そこそこで結婚した母は生まれて初めての一人暮らしが始まります。
あまり寂しさを感じずに、楽しい事がまた積み重なってくれたらいいなと思うばかりです。
話が長くなってしまいました。
ましてやプライベートな話で申し訳なく思いながらも
少し自分の気持ちも整理したくて書きました。
そしてこの1ヶ月、そんな時でもゆちょんの歌声はとても優しかったです。

また通常に戻ります、ありがとうございました。
yuricon