¿Cómo estas?
Gracias siempre!!!
児童文化研究者
miyata.です。
・・・・・角度を変えて見たジエーンズ洋学校教師館・・・・・
・・・・・・・さっきのつづきです・・・・・・・・・
・・・・・つまり人間は、
出発の時そのものを、知る由もないのです。
けれども人間は、(私をもふくめて)ほとんどの人が、
自分の身のまわりのことしか目に見えないために、
この世に「おぎゃ~!」といって生まれ出たその時以来、
入園式や入学式、結婚式といったような、
節目節目の折々のどこかをとらえて、
まさしく人生の出発点だと、考えたがっているように思います。
仮に幾百億世の時の流れを、
区切って見ることが出来るとするならば、
ある意味ではそこが人生の、
出発点だと思っても、間違いではないでしょう。
しかし私には、
どうもそこのところが不審に思えてならないのです。
夢分析で有名なユングという人は、
私が不審に思う部分について、
およそ次のようなことを言っています。
「人には足があって、
移動することが出来るために、
「根」が無い、と思われているが、
実際には「根」がある。
「根」とは、自分の父母であり、
その父母の父母であり、
又、その父母の父母の父母のことである。
この「根」こそ大切である」!
又、熊本が生んだ、
幕末の思想家・横井小楠という人は、
漢詩でこれによく似たことを言っています。
《神知霊覚湧如泉
不用作為付自然
前世当世更後世
貫通三世対皇天》
この漢詩の読み下しは次の通りです。
《神知霊覚湧くこと泉の如し
作為を用いず自然に付す
前世当世さらに後世
三世を貫通して皇天に対せん》
この漢詩の意味は、およそ次の通りです。
《知識や知恵、
そして人間としての心に感じる霊妙なものは、
泉のように湧いてくる。
しかし、作為は用いず自然にふるまい、
過去・現在・未来を一貫して、
天の神に従うがよかろう》
(過去・現在・未来・には、人間三代の意味が含まれる)・・・・・!
これらの言葉の中には、
決して「出発」や「終わり」が、
自分の身近なところから何かを始めたりやめたり、
あるいはどこかへ出かけていったり、
帰って来たりするような、簡単なことではない、
もっと深遠な、もっとすごみを帯びたなにものかが、
潜んでいることをしめしているように思います。
加えて言いますと、
小泉八雲という人が、「餓鬼」という本の中で、
こういうことを言っています。
「・・・わたくしは、そのとき、
そよ吹く風も、走る波も、影のひらめきも、
陽の揺らぎも、青空も、海も、
さては陸地の万緑の静けさも、・・・
すべてみなこれ、われと一つのものであると感じたのである。
わたくしはそのとき、この世に初めなく、
終わりもまたなしということを、
ついぞない、まったく新しい、
ふしぎな考え方で確信した自分を発見した。
もっとも、わたくしが感じたそのときの考えは、
べつだん新しいものでもなんでもない。
ただ、この経験が新奇であった点は、
その考えが、一種とくべつの強さをもって、
わたくしに現れてきたことであった。
その強い考えは、わたくしをして、
ひらめき飛ぶ蜻蛉も、灰色の細いからだの浜コオロギも、
頭の上で鳴いている蝉も、
松の木の根もとで遊びたわむれている赤い蟹も、
すべてみな、自分の兄弟姉妹だと感ぜしめたのである。
わたくしは、
それまで自分でわからずにいた自分の魂というふしぎなものを、
そのときはじめて悟りえたような心持がした。
自分の魂は、きっと過去の世に生きていた。
さまざまの形をしたものの中に生きていたに相違ないということ、
また、このさき幾百万年の将来にも、
来ん夏には、きっと自分の魂は、
未来の生存物の目によって、
この太陽を見るにちがいないということを、
わたくしはそのとき悟ったような気がした・・・・・」・・・・と・・・・・・・・・・・・・!
それでは又後ほど・・・・・・・・・・・・・・・・・!
Gracias sienpre!!!
児童文化研究者
miyata.でした。
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↓は私の絵本です!覗いてみてくださいネ!!!
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